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人間ばっかり主義では スミレたちがさびしがる

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生のみでなく死の教育も、
科学だけでなく前科学や非科学の教育も。
 近代教育法も伝統教育法も視野に入れた
庄司和晃氏の構想する「全面教育学」。
 一面的な近代学校教育を相対化する
壮大な教育学体系
その軸にあるのが
「認識の三段階連関理論」。

since 1982
全面教育学研究会
コラム

2018.7.30
「庄司先生 自作 名言集」

(小田 富英))

●小田富英さんから庄司先生が遺された資料:「香句集」自作ノートを読んでの、先生の名言の数々を紹介する原稿が届きました。どれもこれも先生らしいことばの香りが漂ってくる懐かしくて、それでいて身が引き締まるような名言の数々です。●一読した私は、「そういうことだったのか」「これは私みたいな者のことだな」などと思いながら繰っていくうちに、一番衝撃を受けた一句がありました。「本音を見せびらかすな」というものです。というのは、どこかで先生こそ本音の教育論を論理化した人かと思い込んでいた自分がいたからです。●こう心づくと、特に先生の戦争体験の話には、どこか十分に語られていないのではないか、そんな疑問を抱いた経験が思い出されてきました。●その資料を挙げろと言われれば、あれほど強固だった七〇年の伝統をもつ海軍が瓦解したことの驚きを語った話(本HP『私の研究歴 談話録(1)』)と、自分を「海軍バカ」だと自称した「海軍の月」(同前「いわゆる年譜」所収)という短篇の二つです。そしてこの二つの資料で語られなかったことを推測できる資料が、長浜功『日本ファシズム教師論』を批評した「日本民族教育の内省の学」(庄司和晃著作集第一巻)ではないか。●もう一つ。「見せびらかす」という言葉の使い方を考えることが手がかりになるのではないか。●・・・・・先生の生涯はまだまだナゾに満ちています。(編集部)

2018.7.17

成城学園物語
(徳永 忠雄)


 今は亡き庄司和晃先生が遺した膨大な資料は、成城学園の正門から左に曲がって50mほどの大きな空き教室におかれています。隣からは成城学園初等学校の児童の声が聞こえてきます。ここには庄司先生の資料のほか大学や学園が使うさまざまな備品がおかれ、さながら倉庫のようでもあります。この部屋の片隅に白い布がかけられた時代を思わせる大きな机が丸椅子とともに置かれて目を引きます。これは成城学園の創立者沢柳政太郎が使っていたものです。
 その沢柳政太郎は今も銅像として校門の脇に立ち学園を見守っているのですが、この像の前で必ず恭しく頭を垂れる生前の庄司先生を思い出します。文部官僚であり京都帝大の総長などを歴任した沢柳さんは、京都大学の頑迷な教授陣と対立し京大を去ったあと在野で教育に情熱を燃やします。そんな折、牛込の私立成城中学校(陸軍士官者養成と中国人留学生の受け入れ校)から校長就任を依頼され、小学校を作れるならという条件で引き受けたのが今の成城学園初等学校でした。
 沢柳政太郎は1865年(慶応元年)信州松本に生まれ、東京帝大で哲学を学び文部省に入省しました。柳田国男とは10歳違いですが、その志は国のために自分は何ができるかという柳田と同じメンタリティを持っていたはずです。
 新宿の成城学園初等学校が砧村に転居したのが大正14年、柳田家が砧村に転居したのが昭和2年でした。柳田の転居の意図を長男の為正氏は「…実は澤柳先生への信頼と期待があってのことと察せられる。父国男にとっては年齢からも大分先輩に当たるが、いわゆる『薩長』勢力がいまなお中央官界を牛耳っていたときとして非主流官人キャリヤーの先導たる先生は、骨の髄まで開明派的な日頃の発想と併せて、父の信頼する御人だったはずである。」(「信州教育」)と述べています。
 沢柳政太郎の人となりを語る次のようなエピソードがあります。「…校長が来ると、子供が先生のネクタイを引っ張ったり耳をつかんだりして遊んでいる。」(「成城教育」)大正自由教育の最先端に成城学園はいました。これは後年柳田が繰り返し言った「子ども本位の教育」と重なるものがあります。
 成城学園の中で沢柳政太郎と思いを同じくした小原国芳はやがて玉川学園をつくりますが、その辺りのいきさつを庄司先生の1960年代の資料から現在読み取っています。資料を読みながら、沢柳政太郎、柳田国男、小原国芳そして庄司和晃の教育理念が重なり合おうところが多いことに驚きます。
 昨年は成城学園初等学校創立100年でした。記念出版された教育研究所発行の『学校と街の物語』は大学の生協だけでなく近隣の書店にもおかれています。本書によると成城の街作りは澤柳政太郎の成城学園初等学校が中心となって為されたことが分かります。学園内を仙川が流れ散歩から学べることは多くあったことでしょう。保護者には平塚雷鳥、北原白秋、武者小路実篤らがおり、大岡昇平、小澤征爾、日高敏隆、加藤一郎などここから輩出された人々には大正自由教育の精神によって磨かれた個性が輝いています。敗色濃い昭和19年にバッハのマタイ受難曲を演奏したこと、成城学園駅の南に住んでいた横溝正史が隣家の音楽家をヒントに「悪魔が来たりて笛を吹く」を創作したこと、戦前にできた東宝撮影所の影響で映画人が多く住むようになってきたことなど、話題に事欠きません。
成城学園の心地良さは、小学生から大学生までさまざまな学生が同じ空間で賑わっていることです。彼らは制服に束縛されずに自由な気風で生き生きとしているように見えます。膨大な資料を前にしながらも全面教育学もこの気風の中で生まれたことに意を強くしています。

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