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人間ばっかり主義では スミレたちがさびしがる

全面教育学研究会公式サイト 
生のみでなく死の教育も、
科学だけでなく前科学や非科学の教育も。
 近代教育法も伝統教育法も視野に入れた
庄司和晃氏の構想する「全面教育学」。
 一面的な近代学校教育を相対化する
壮大な教育学体系
その軸にあるのが
「認識の三段階連関理論」。

since 1982
全面教育学研究会
コラム

2018.9.16
ことばっちの冒険2018(4)
(向井 吉人)

●向井吉人さんからことばっちの冒険2018(4)が届きました。いやはや今夏はひどかった。未曾有の暑さ、空前の最高気温、曠古の灼熱地獄でした。でも秋の風を感じながらほっと一息ついてみると、こんなことは前例のないことだと嘆くあまりつい歴史を忘れがちです。「観測史上」であるという条件をすっぽり棚上げしています。観測史上最高は何回もあったはずですし、歴史以前にはもっとすごい夏があったかもしれないという想像力も失いがちです。未曾有・空前・曠古は用心していい言葉かもしれません。●九月に入って届いた今回の向井さんの原稿はなんだか涼し気です。波瀬満子さんが生前立ち上げたという「ウリポ・はせ・カンパニー」で企画された大道芸、長唄、落語を楽しむ会の報告。春風亭昇吉さんの落語「ハーディーガーディー」に出てくるヘンな言葉がおもしろい。意味もわからないのに、数回でも口にしてみるだけで、ほぼ憶えてしまえるという優れもの。文字のない時代に、このようなリズミカルなことばは今よりもたくさん創作されたのではないかと思えます。「ハーディーガーディ ドリンガフーテラ コバモー ボヌヘソ シルソブ ナ」という文句です。●もう一つ興味深いのは三つ目の話にでてくるフジテレビのクイズ番組「潜在能力テスト」を編集した『公式問題集』(第2巻)のなかにある問題です。第10問では、2個の空いている□のなかに同じ文字を入れて知られている単語をみつけ出す遊び。たとえば「ぺ□ぎ□」は「ペ」が正解でしょう。向井さんは「つ□は□」と「□ずう□」がなかなか出て来なかったそうです。当方は「□し□と」と「□ーす□」がすぐには出てきませんでした。●人によっててこずる問題が異なり、ひらめきの要因についても、何番目と何番目が空いているかとか、語彙のストックや音韻的なひらめきの有無を挙げています。・・・いや、もう一つあるかもしれません。向井さんも私と同様「つ□は□」は即答に近かったのではないでしょうか。貧しい時代を経験しているという世代あるいは境遇という共通性も加えていいかもしれません。ああ靴下がごろごろして実にいやだった。答え、すぐにわかりますか。(編集部)

2018.7.17

成城学園物語
(徳永 忠雄)


 今は亡き庄司和晃先生が遺した膨大な資料は、成城学園の正門から左に曲がって50mほどの大きな空き教室におかれています。隣からは成城学園初等学校の児童の声が聞こえてきます。ここには庄司先生の資料のほか大学や学園が使うさまざまな備品がおかれ、さながら倉庫のようでもあります。この部屋の片隅に白い布がかけられた時代を思わせる大きな机が丸椅子とともに置かれて目を引きます。これは成城学園の創立者沢柳政太郎が使っていたものです。
 その沢柳政太郎は今も銅像として校門の脇に立ち学園を見守っているのですが、この像の前で必ず恭しく頭を垂れる生前の庄司先生を思い出します。文部官僚であり京都帝大の総長などを歴任した沢柳さんは、京都大学の頑迷な教授陣と対立し京大を去ったあと在野で教育に情熱を燃やします。そんな折、牛込の私立成城中学校(陸軍士官者養成と中国人留学生の受け入れ校)から校長就任を依頼され、小学校を作れるならという条件で引き受けたのが今の成城学園初等学校でした。
 沢柳政太郎は1865年(慶応元年)信州松本に生まれ、東京帝大で哲学を学び文部省に入省しました。柳田国男とは10歳違いですが、その志は国のために自分は何ができるかという柳田と同じメンタリティを持っていたはずです。
 新宿の成城学園初等学校が砧村に転居したのが大正14年、柳田家が砧村に転居したのが昭和2年でした。柳田の転居の意図を長男の為正氏は「…実は澤柳先生への信頼と期待があってのことと察せられる。父国男にとっては年齢からも大分先輩に当たるが、いわゆる『薩長』勢力がいまなお中央官界を牛耳っていたときとして非主流官人キャリヤーの先導たる先生は、骨の髄まで開明派的な日頃の発想と併せて、父の信頼する御人だったはずである。」(「信州教育」)と述べています。
 沢柳政太郎の人となりを語る次のようなエピソードがあります。「…校長が来ると、子供が先生のネクタイを引っ張ったり耳をつかんだりして遊んでいる。」(「成城教育」)大正自由教育の最先端に成城学園はいました。これは後年柳田が繰り返し言った「子ども本位の教育」と重なるものがあります。
 成城学園の中で沢柳政太郎と思いを同じくした小原国芳はやがて玉川学園をつくりますが、その辺りのいきさつを庄司先生の1960年代の資料から現在読み取っています。資料を読みながら、沢柳政太郎、柳田国男、小原国芳そして庄司和晃の教育理念が重なり合おうところが多いことに驚きます。
 昨年は成城学園初等学校創立100年でした。記念出版された教育研究所発行の『学校と街の物語』は大学の生協だけでなく近隣の書店にもおかれています。本書によると成城の街作りは澤柳政太郎の成城学園初等学校が中心となって為されたことが分かります。学園内を仙川が流れ散歩から学べることは多くあったことでしょう。保護者には平塚雷鳥、北原白秋、武者小路実篤らがおり、大岡昇平、小澤征爾、日高敏隆、加藤一郎などここから輩出された人々には大正自由教育の精神によって磨かれた個性が輝いています。敗色濃い昭和19年にバッハのマタイ受難曲を演奏したこと、成城学園駅の南に住んでいた横溝正史が隣家の音楽家をヒントに「悪魔が来たりて笛を吹く」を創作したこと、戦前にできた東宝撮影所の影響で映画人が多く住むようになってきたことなど、話題に事欠きません。
成城学園の心地良さは、小学生から大学生までさまざまな学生が同じ空間で賑わっていることです。彼らは制服に束縛されずに自由な気風で生き生きとしているように見えます。膨大な資料を前にしながらも全面教育学もこの気風の中で生まれたことに意を強くしています。

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