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人間ばっかり主義では スミレたちがさびしがる

全面教育学研究会公式サイト 
生のみでなく死の教育も、
科学だけでなく前科学や非科学の教育も。
 近代教育法も伝統教育法も視野に入れた
庄司和晃氏の構想する「全面教育学」。
 一面的な近代学校教育を相対化する
壮大な教育学体系
その軸にあるのが
「認識の三段階連関理論」。

since 1982
全面教育学研究会
コラム
2018.11.2
ことばっちの冒険2018(5)
(向井 吉人)

●向井さんから原稿が届きました。いつもありがとうございます。いつもの8頁構成で、話題は四つ。①「一文字の漢字が一音だけの発音で意味をもつ」漢字を思い出し、意味を考えると、どのような句が思い浮かぶかという問題。もちろんこれは大人向け。向井さんと20年近くなることば遊びの学習会での報告。「苦にならない」「楽あれば苦あり」などの「苦」。難しそうだが、たちまち慣用句や歌詞などを思い浮かべられるそうだ。流石。国語辞典を読む楽しみの一つになりそう。●②は、「○ー○ー」の長音が続く語形になることばをさがす問題。これは簡単。コーヒー、ダービー、ルーキーなど。メーデーを知らない世代も多いとか。外来語に多いですな。日本語の新語にも影響を与えているかも。そういえば、ことば遊びって大抵は、イメージをふくらませる新語の作成だったことに気づきます。柳田國男は1934(昭和9)年に「新語論」という中編で、すべてのことばは新語だと説いています。腑に落ちます。また、この時代になにゆえ新語かいう問題は興味深い。脱線。●③はオノマトペ(擬声語・擬態語)によるコトバ(新語)つくりで、ABAB型が多いとか。これを使って「とんとんとんま(の天狗さん)」みたいに、「オノマトペ+名詞」の句を思いつく課題。ここにはしりとりの技法も入っています。サラサラサラダ、ころころコロッケなど。いま思いついたけど、「トントン拍子」はしりとりになっていませんね。悔しいからもう二つ。がりがりガリ勉。とんとんとんからりん。ん?「とんからりん」ってなんだろう?●④は、ABAB型のオノマトペを分解して文を作る遊び。お笑い番組「笑点」での作品を紹介。秀逸だと思ったのは、「発見したドキ(土器)、自分が埋めたのでドキドキ」(木久扇)。ドキドキ感がよく伝わってきます。あの事件からもう18年もたったんですね。向井さんの作品もご賞味あれ。(編集部)

2018.7.17

成城学園物語
(徳永 忠雄)


 今は亡き庄司和晃先生が遺した膨大な資料は、成城学園の正門から左に曲がって50mほどの大きな空き教室におかれています。隣からは成城学園初等学校の児童の声が聞こえてきます。ここには庄司先生の資料のほか大学や学園が使うさまざまな備品がおかれ、さながら倉庫のようでもあります。この部屋の片隅に白い布がかけられた時代を思わせる大きな机が丸椅子とともに置かれて目を引きます。これは成城学園の創立者沢柳政太郎が使っていたものです。
 その沢柳政太郎は今も銅像として校門の脇に立ち学園を見守っているのですが、この像の前で必ず恭しく頭を垂れる生前の庄司先生を思い出します。文部官僚であり京都帝大の総長などを歴任した沢柳さんは、京都大学の頑迷な教授陣と対立し京大を去ったあと在野で教育に情熱を燃やします。そんな折、牛込の私立成城中学校(陸軍士官者養成と中国人留学生の受け入れ校)から校長就任を依頼され、小学校を作れるならという条件で引き受けたのが今の成城学園初等学校でした。
 沢柳政太郎は1865年(慶応元年)信州松本に生まれ、東京帝大で哲学を学び文部省に入省しました。柳田国男とは10歳違いですが、その志は国のために自分は何ができるかという柳田と同じメンタリティを持っていたはずです。
 新宿の成城学園初等学校が砧村に転居したのが大正14年、柳田家が砧村に転居したのが昭和2年でした。柳田の転居の意図を長男の為正氏は「…実は澤柳先生への信頼と期待があってのことと察せられる。父国男にとっては年齢からも大分先輩に当たるが、いわゆる『薩長』勢力がいまなお中央官界を牛耳っていたときとして非主流官人キャリヤーの先導たる先生は、骨の髄まで開明派的な日頃の発想と併せて、父の信頼する御人だったはずである。」(「信州教育」)と述べています。
 沢柳政太郎の人となりを語る次のようなエピソードがあります。「…校長が来ると、子供が先生のネクタイを引っ張ったり耳をつかんだりして遊んでいる。」(「成城教育」)大正自由教育の最先端に成城学園はいました。これは後年柳田が繰り返し言った「子ども本位の教育」と重なるものがあります。
 成城学園の中で沢柳政太郎と思いを同じくした小原国芳はやがて玉川学園をつくりますが、その辺りのいきさつを庄司先生の1960年代の資料から現在読み取っています。資料を読みながら、沢柳政太郎、柳田国男、小原国芳そして庄司和晃の教育理念が重なり合おうところが多いことに驚きます。
 昨年は成城学園初等学校創立100年でした。記念出版された教育研究所発行の『学校と街の物語』は大学の生協だけでなく近隣の書店にもおかれています。本書によると成城の街作りは澤柳政太郎の成城学園初等学校が中心となって為されたことが分かります。学園内を仙川が流れ散歩から学べることは多くあったことでしょう。保護者には平塚雷鳥、北原白秋、武者小路実篤らがおり、大岡昇平、小澤征爾、日高敏隆、加藤一郎などここから輩出された人々には大正自由教育の精神によって磨かれた個性が輝いています。敗色濃い昭和19年にバッハのマタイ受難曲を演奏したこと、成城学園駅の南に住んでいた横溝正史が隣家の音楽家をヒントに「悪魔が来たりて笛を吹く」を創作したこと、戦前にできた東宝撮影所の影響で映画人が多く住むようになってきたことなど、話題に事欠きません。
成城学園の心地良さは、小学生から大学生までさまざまな学生が同じ空間で賑わっていることです。彼らは制服に束縛されずに自由な気風で生き生きとしているように見えます。膨大な資料を前にしながらも全面教育学もこの気風の中で生まれたことに意を強くしています。

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