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全面教育学とは何か
2008.12/13  25周年記念集会・記録集より

 研究会の歴史ならここ 基調報告 わたしたち何を語り 何を発信してきたか
     

 研究会はここから始まった!→ 資料 庄司ゼミ(都立大大学院)「柳田学と教育」全概要

 全面教育学入門なら断然ここ→ 記念講演 全面教育学の現在と未来──次の世代の人たちへ

                               図・全面教育学の源流 koenhosokuzu.PDF へのリンク

 多様な人間模様ならここ   →  庄司学・出会いと学びの諸相
  模擬授業ならここ。たのしいです→ コトワザ授業の実際 (植垣先生と集会参加者)

 

 

 基調報告
わたしたちは何を語り 何を発信してきたか
──全面教育学研究会の25年~と前史4年── 小田 富英



 全面教育学研究会の前史は4年間の庄司先生が講師をされていた都立大のゼミ時代に当たる。これに正式な研究会発足後の25年を加えると、今年は29周年になる。来年、30周年を迎えるので、これをやりたい。

Ⅰ.今集会の意味──三つ
 今集会の意味ということで、3点挙げておきました。

(1)歩みを反省しつつ次の世代に伝えたい
わたしたちが庄司先生に出会った頃、先生は教育学者のなかでかなりユニークな立場におられたと思います。教育学者はたくさんいますが、庄司先生は文部省お抱えの学者でもないし、革新団体のお抱えの学者でもなし、民間の小学校の教員からコツコツ努力されて、自分の学問を打ち立てられ大学の先生になられた方です。たしか、理科教員の研究集会であったと思います。参加者から「最近の子供は変わってきた。ニワトリの絵を4本足で描く子が多くなってきた」という報告があり、「それは体験不足ではないのか」という声があちこちから聞こえてきたとき、庄司先生はそういう発想からではなくて、4本足のニワトリを描いている子供がいたら、「おもしろい」というところからスタートできないのかと話されたんです。そういうふうに考える先生がいることに驚きました。当時、わたしは柳田國男の研究もしていたのですが、庄司先生の柳田研究や教育研究に憧れながら門を叩いたのです。
 具体的には、都立大学の夜間ゼミ(小沢有作ゼミ)に庄司先生の講義がありまして、今日の集会に参加されている小林千枝子さん(作新学院大学)。三石さん(東京学芸大学)、三石さんには今集会のチラシを大学で配ってもらいました。それから金沢にお住まいの方、そして植垣さんとわたしと5人で始めたのが全面教育学研究会でした。たった5人で始めた研究会がこんなに長く続きこんなに大勢の方が集まれるような会になるとは、はじめは思っていませんでした。しかしふりかえってみると、わたしたちの力不足で、次の世代に庄司先生の学問を伝えて来なかった。さっき司会の向井さんは「検証」という言葉を使いましたが、これまでの歩みを反省しながら、次の世代の人たちに伝えていけるような集会にしたいと思いました。これが今集会の第一番目の意味です。

(2)現在的課題をつかむヒントに──表層雪崩に抗す
 もう一つは、レジュメのほうに生意気に「表層雪崩に抗す」と書きました。今みなさんはどうお感じかわかりませんが、今の世の中どこで暮らしても何を見ても、なにか表面的なうすっぺらな感じがして仕方ありません。わたしはそんな世の中だからこそ、人間が生きていくうえで、あるいは教育の仕事で今大事なのは、わたしたちの無意識、深層、精神世界を含めて考えることではないかなと思っているんです。庄司先生の全面教育学は、もちろんこの点を重視されているのですが、ほかの教育学から隔てているのは先生の発想・考え方です。わたしたちは先生の発想・考え方に大きな魅力を感じてきました。
 先生が1979年に全面教育学を旗揚げされた頃の著書のなかに、こういう文章があります。

≪わたしどもがこの世を生き抜いていくためには、自発・自主・創造の「徳」は重要である。と共にしきたり・習俗・慣例ということもまた必要である。教える教育もいいが、ある条件内では教えないことの方がかえって教育的でさえある。考える教育の強調ばかりでは考えることのありがたみもよくわからぬ。時と場合によっては下手な考え休むにしかずで、考えさせないことの方がよいこともある。発想力をつけるときなどはとくにそうだ。ある意味で、考える教育よりも考えない教育の方がえらくむずかしい。頭の中にはたくさんの妄想がうずまくからである。今の教員は、昔の師匠の半分ほどの見識と眼力とをきたえる必要があるのではないか。
ことほどさように、長短と限界を知っての統一的観点で運びたいものだ。伝統的教育法に学ぶべきことは存外に多いのである。長年月をかけての世渡りの知恵がそれとなくかくれひそんでいるからである。≫(大東文化大学文学部教育学科NO.14研究室『全面教育学要説 第一分冊』32頁 1979)

先生は、「伝統的教育法」の価値への再評価を促しておられますが、ここには庄司先生の魅力的な考え方があります。「自発・自主・創造の『徳』は重要である。と共にしきたり・習俗・慣例ということもまた必要である」とか、「教えないことの方がかえって教育的でさえある」とか、また「考える教育の強調ばかりでは考えることのありがたみもよくわからぬ」などです。一言で言えば、相手を対にして統一的に理解するという方法です。もっと言っちゃえば、弁証法です。わたしの文脈でいえば、今の世の中を特徴づける意識ばっかり表層ばっかり、そしてモノばっかりの風潮が蔓延している状況つまり「表層雪崩」に対して、無意識・深層・精神の世界をとりあげ、両方を統一的に把握するといういきかたです。
わたしたちは、これまで、この方法のもとで構想された先生の全面教育学、その展開である数々の教育実験に取り組んできました。たとえば、コトワザ・俗信・死の教育などです。これらの教育実験の一端は、今日の集会で知ることができると思いますが、わたしたちの話にも庄司先生的な、弁証法的な発想・考え方を必ず見つけ出すことができるはずです。
またこの発想・考え方は、今の世の中を見るモノサシとしても有効だと考えています。教育の問題だけでなく、現在どんな問題があり何が課題なのかを掴み取るためのヒントとしても受けとめていただいたら、こんなに嬉しいことはありません。

(3)未来へのバトンタッチ──魅力的な発想・考え方を楽しむ
三つ目。わたしたちは、いわゆる団塊の世代です。この世代はまた「断絶の世代」でもあると思います。基本的な性格として、下の世代に繋げることが苦手な人間ばっかりです。そういう人間が庄司先生の下に、梁山泊のように集まり、わいわい勉強してきました。しかし、ほんとうに庄司先生には申し訳ないのですが、次の世代に繋げるために若い人たちを育ててこなかった。大学にもっと我々で作る講座でもあれば、そこで学ぶ大学生を一人二人と育てることができたかもしれません。それはともかく、この際もっと気軽に、もっとざっくばらんに、庄司先生の魅力的な学問を伝える場を持ちたいなあと思い、今回実現の運びになったわけです。伝えたいだけでは駄目です。これまでみんな、そう思うことだけは思ってきましたから。重要なのは、具体的な場、具体的な機会を設けることです。
そこで、今回極力若い人たちに呼びかけたのです。庄司先生がいらした大東文化大学では、庄司先生のお仲間の先生が授業中に学生たちに声をかけてくださったそうです。学芸大学の三石先生のもとにチラシをおくりましたし、成城学園にも送りました。あと日本女子大にわたしの友人がいて、講義のなかでこの集会のことを紹介してくれました。そういうキッカケで参加された方はいますか。・・・・いませんね。もうちょっと事前のアピールをすればよかったなあと反省しています。
具体的な場、具体的な機会を設ける必要があるということで、とくに今回はミニフォーラムを設け、全面研のこれまでのメンバーに呼びかけ集まってもらっています。後ろに今回の集会の準備を手伝ってくれた若い人たちもいますので、庄司先生の魅力や学問の魅力を存分に語ってもらい、とことん弾けて欲しいと思っています。とにかく発想や考え方のおもしろさを楽しんでください。司会の尾崎さん、よろしくお願いします。


Ⅱ.全面教育学研究会の歩み
 簡単にですが、全面研の歩みを三期に分けてお話しておきたいと思います。

(1)第1期・<外>への発信期──刺激的な出会いをかさねて
第1期は、わたしたちが始めた頃で、人間関係がズーッと広がっていった時期です。1期2期3期という区別はとくに深い意味はありません。1期の事務局をやったのがわたしで、2期が日下さん、3期が道岡さんと、要するに事務局担当者で分けただけの話ですが、奇妙に活動の中身も少しずつ違い、特徴を認めることができます。
 この時期の特徴は、<外>への発信期で、5人で始めた会も3年ほど経って名簿を整理したときには60人、この時期に「全面教育学通信」を送り始めたのですが、もう一寸経ってからの発送数は90人でした。こうしてどんどん外に広がっていったんですが、これは偶然としか言いようがありません。
たとえば当時、太郎二郎社の雑誌『ひと』で若い先生たちに授業プランを考えさせる会の募集があったので、わたしも出かけてみました。太郎次郎社の古い建物二階の狭い部屋に、20人くらい集まったんです。そこで自分はどんな授業をしたいのか、それぞれのプランを発表しあう機会がありました。わたしは柳田國男の社会科をやりたいと話したんですが、来ていた人たちの反応は冷たいもので、「いま柳田國男なんかやるのは古臭い、右翼じゃないか」とか、革新的な教師の「そんなことやるよりももっと科学的なことを教えたい」という意見で一蹴されてしまいました。浅川という社長さんは理解を示してくれ、二次会の飲み会に行かないかと誘われたんですが、わたしはちょっと気分が悪かったので帰りました。水道橋駅近くをとぼとぼ歩いていたら、後ろから「小田さん、小田さん」と声を掛けてくれたのが徳永さんです。水道橋の赤ちょうちんに入り、二人でいっぱいやりながら、「柳田は面白いよね」という話をしたのです。徳永さんが全面研に参加したら、そこに小林さんがいたのです。小林さんと徳永さんは、実は学生時代「ルソー研究会」で一緒だったそうです。
 それから向井さんとの出会い。向井さんは、当時からガリ版のことば遊びの実践記録をズーッと庄司先生に送っていました。ある日の研究会の席上、庄司先生が「みなさん、こんな面白いひとがいます」といってその冊子を見せてくれたんです。わたしはそれを見て著者が大学時代から憧れていた向井さんであったことを知ったのです。さっそく全面研に来てもらいました。こうして会員一人ひとりに面白い出会いのがあるんですが、ここではもうひとかた、漫画家の吉田ゆたかさんとの出会いを紹介します。
 吉田さんは、4コマ漫画によるコトワザ漫画を子供向けに初めて本にした方です。当時、自分の原稿をいくつかの児童図書の出版社に持ち込んでいたのですが、ほとんどから断られてしまったそうです。しかし、唯一あかね書房の編集長が評価してくれてついに出版できることになりました。そしてこれが当たりました。初版がすぐに売り切れ何刷りも爆発的に売れているときに、全面研に来てくれたのです。この間の事情は今日お渡しした『全面教育学VOL.1』(1988)で吉田さん自身が「ことわざ事典の反響」を書いていますので、当時の状況をうかがうことができます。現在では、子供向けにたくさんの種類の「コトワザ本」がでていますが、これを読むと、吉田さんの仕事の先駆性がよくおわかりになると思います。あとで是非ごらんになってください。吉田ゆたかさんの『まんがで学習 ことわざ事典』全5巻(あかね書房)は現在でも出ています。しかし吉田さんはこの全五巻が完結した頃に病気がわかって入院しそのまま還らぬ人になってしまいました。吉田ゆたかさんとの出会いは、とても刺戟的で得るものも大きかったので、たいへん残念な思いです。
 この第1期には、カメラマンの方が参加したり、新聞記者の長谷川孝さんがいたり、あとイラスト画家がいたりと、教員だけではない面白い刺激的な時期でした。そこで雑誌を出そうということになり、風濤社という出版社から社長さんがきてくれまして、庄司先生の考え方を軸にして教育雑誌を作ろうということになりました。何回か編集会議をもったのですが、まあ財政的
なことや方針の違いなどが原因で、その雑誌は陽の目を見ませんでした。でも、わたしたちはここで話し合ったことを無駄にしたくないので、本を作りましょうということで出来たのが、さっき紹介した『全面教育学VOL.1』という本です。在庫がありましたので、今回プレゼントさせていただきました。当時の時代状況とわたしたちの問題意識がわかる一冊だと思います。

(2)第2期・<内>の醸成期──多彩な教育実験群の提出
 わたしは、柳田國男研究会の仕事が忙しくなったので、日下さんに事務局をバトンタッチしました。この時期の特徴は教室での実践、わたしたちは教育実験と呼んでいるんですが、主に教育実験のレポートを発表し合うなかで交流した時期でした。
ここで出会ったひとりが、若林和美さんです。若林さんはアメリカで「デス・エエデュケーション」を勉強されてきた方です。現在も山梨の大学でこの方面の研究をされています。この方に研究会に来てもらって、アメリカにおける「デス・エデュケーション」と、柳田國男の「人の一生」やわれわれの死の教育との比較を試みました。その違いと共通性ですね。結局は、ほぼ同じことをやっていることがわかり、柳田國男のほうが早く「死の教育」の意義に気づいていたことを知りました。「死の教育」の実験は、日下さんが精力的に取り組んできたという時期でした。他にも、多彩なコトワザ教育実験、ことば遊び、人間一生論、柳田社会科・国語科、迷信(俗信)などたくさんのレポートが出され、われわれの認識が深まった時期だといえます。

(3)第3期・庄司理論の継承期──ようやくのみ込めて来た
 事務局が日下さんから道岡さんにバトンタッチ。これが第3期で、現在に当たります。研究会をなかなか外で開けないので、再度庄司先生のご自宅にお邪魔して勉強会をやろうということで2ヶ月に1回程度開いています。今年は、全面研のメンバーがほかに立ち上げた世相史研究会(封筒のなかにチラシが入っています)との合同の研究会をやりました。
 さっきは、わたしは「反省」という言葉を使ってわたしたちの歩みをふりかえりましたが、正直なところ20年30年前に庄司先生の著作を読んでもわからなかったこと少なくありませんでした。ですが、わたしにしても今になってようやくわかってきたという状況があります。今頃気づいても遅いのですが、これから外に向って広げていきながら、若い人に繋げて行こうという流れが自覚されてきたのが第3期の現在、第3期の特徴だと思います。今日の集会は、こういうわたしたちの意思の表れです。庄司先生にもご承諾いただいて、今日は久しぶりに1時間ほど、みんなで先生の講義を聞く機会をもつことができます。


Ⅲ.わたしたちの課題──全面教育学の継承と発展
 さて、わたしたちの課題です。それを端的に言えば、全面教育学を継承し発展させていくことです。もう少し具体的に言うと、全面教育学の背骨理論である「認識の三段階連関理論」をすべての場で使ってみようということです。これは今日の集会での呼びかけでもあります。

(1) 授業や生活で活かす
三段階連関理論は、授業作りの場で必ず役に立つ考え方です。とくにこの理論でいうノボリ・オリのための「キッカケことば」を頭のなかに入れておくと、子供たちとの会話も弾むんじゃないかと思います。今日の集会にはわたしの若い仲間にも来てもらっていますが、勤務校だった武蔵野第二小学校での話を紹介します。
ここでは数年前まで子供のコミュニケーション能力を育てようという校内研究をやり外部へ発表会もしました。わたしは研究主任だったんですが、表面をなぞるような研究ではおもしろくないので、子供たちのコミュニケーション能力を高めるために、庄司先生の「三段階連関理論」をお借りして身近な言葉で自分たちの理論を作りたいと思いました。子供たちの会話を聞いていますと、すぐに「ださい」とか「むかつく」とか感覚的な言葉がたくさん飛び交っていることに気づかれるでしょう。これらを「キッカケことば」によって第二段階(表象レベル)に持ち上げられないか。さらにはもっと高次な第三段階(概念レベル)に持ち上げられないかと考えたんです。それで、「どうして」「べつの言葉で言えば」「他と比べたら」とか、「思っていることにぴったりした言葉は」とか「コトワザで言えば」とか、子供たちをノボリ・オリさせるためにのキッカケ言葉を研究しながら、「感じ言葉―思い言葉―考え言葉」の三段階を考案したのです。子供たちの1年生から6年生になるまでに、この三段階をスパイラルのように繰り返しながら、何か感想を求められたら自分の言葉で長く理路整然と話せる子供たちを作ろうと思ったのです。
これを「三段階連関スパイラル理論」と呼んでみようと思いついたのですが、庄司先生の本を読み直してみたら、「三段階連関理論は螺旋的に発展する」と書いてありました。庄司先生はとっくに分かっていたんだなあと思いました。また戦後、柳田國男に「思い言葉」というエッセーがありまして、戦前の教育は漢字に重きをおきすぎた結果、自分の思いにぴったりな言葉を使うことができなくなってしまったのだと、こういう話が新聞に載ったことがありました。小学生時代は「思い言葉」が豊かになる時期だというのです。わたしたちは、これを育てる手立てを研究したわけです。三段階連関理論を頭に入れておくと、授業でも生活でもたいへん役に立ちます。

(2)世界認識に活かす
全面教育学を継承し発展させていくためにのもう一つの提案は、これを「世界認識に活かしましょう」という提案です。この世の中・時代を分析するひとつの手法あるいは自分で考える武器にできないかと考えています。これをみなさんと一緒にできないかと思っているのです。

(3)多彩な教育実験の展開
 三つ目の提案は、さきほど挙げた教育実験群──多彩なコトワザ教育実験、ことば遊び、人間一生論、柳田社会科・国語科、迷信(俗信)などの分野をこれからもどんどん積み重ね、その意義を検証していくことです。とくに、今日の篠原さんや長谷川さんから話が出るかもしれませんが、現在の学校ではなかなか語れない宗教教育の話題です。これについても実験しながら深めていくことが課題だと思います。
 「今集会の意味」でも触れましたが、以上の三つの課題に加えて、今日の集会を、次の世代へのバトンタッチの<場>として位置づけていきたい。これからもこういう機会を増やしていきたい。そして若い人たちにも積極的にアピールしていきたいと考えています。

さて、柳田國男に「次の代の人々と共に」という講演記録があります。昭和32年の10月31日に、国学院大学日本文化研究所に集まってきた大学生に話しかけたものです。柳田が亡くなる5年前のことです。この講演の最後の一節は、わたしたちの気持ちにピッタリしていると思われますので、基調報告の最後に紹介します。

≪わたしはここに来て若い学生たちを始終見ておりますのは、この人々といつまでも議論ができるように永く生きておって、国のもう少し良くなるのを見たいからであります。≫

柳田が若い人たちに注目するのは、共に議論し、世の中がもう少しよくなるのを共に見たいからだと述べています。
今日の庄司先生の講演「全面教育学の現在と未来──次の世代の人たちへ」は、わたしたちの方で設定したテーマです。わたしは、庄司先生にも柳田と同じような気持ちで若い人たちに呼びかけてもらいたいと思いこういう副題をつけましたが、正しくは柳田の講演と同じ「次の代の人々と共に」とつけるべきでした。わたしの記憶違いによるミスです。でも庄司先生は、きっと「若い人たち共に」という呼びかけをしてくださると思っています。では、みなさんで庄司先生の講演をお聞きしたいと思います。(終 拍手)
    (2008/12/13 於 成城大学)


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 資料
庄司ゼミ(都立大大学院「柳田学と教育」全概要

植垣一彦

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 記念講演
 
全面教育学の現在と未来
──次の世代の人たちへ──
庄司和晃
 
 

  庄司和晃と申します。今日はようこそおいでくださいました。これから全面教育学とは何かということのポイントをお話して、それから全面教育学成立までのプロセスあるいは源流といった話をしながら、いただいた御題に近づいていきたいと思います。

 Ⅰ.全面教育学とは何か

(1)教育の一面性を自覚する ── カラクリを握りとる
 全面教育学とは何か。
 まず一つは一面的な教育を克服したいということであります。どういうことか。教育学の主張を見ていきますと、だいたいが一方的です。一方的ですからいつも裏を見つけていく必要がある。なにか先走った主張を聞いたら、裏やその周辺はどうなっているのかを考えていく必要があります。たとえば、今の教育と昔の教育とを例に挙げます。昔の教育というと、たいてい否定されたり押し込まれ流されたりしますね。だが、そういう嫌がられたりするところに教育の力を発揮する種がこぼれているんじゃないか、と考え掬い取る必要があります。平和教育ということが熱心に主張されると、その反対の悪者は、軍国教育とか天皇さん中心の皇国教育ということになり、これは否定されます。これはおかしいと思うわけです。あの当時はあの当時で一生懸命やっていたのだから、そのなかのプラスマイナスを考え、一度そのカラクリを握ってみる必要があります。
 いったい軍国主義教育とは何であったのか。皇国主義教育とは何であったのか。いくさに負けた後の民主主義教育とどう違うのか。イデオロギーの違いですね。そこら辺りからカラクリをいじってみる必要があります。その違いはと言えば、戦後はだいたい生命尊重の教育だと言われます。だが生命尊重ばかりではなく、われわれは生命を虐待し相当悪いこともしています。こういう方面の教育というものがあるし、生きていく教育は喜びだけれども死ぬというのは怖い、だから死の教育も見つめる必要があるんじゃないか。そういう発想をしていきたい、こう思うわけです。
 大教育学者などによれば、仏教・神道・道教における教育法というのはだいたい「教化(きょうか)」ですね。「教え化かす」方法です。「教化(きょうけ)」とも言います。これは非常に意識的に短期間に人間を質的に変革してしまうというニュアンスがあります。たとえば日蓮さんのほうの修業である「水かぶり」を一月なりがんばってやりますね。また神道や仏教でも千日行などいう修業もあって、一気に人間変革をやってしまいます。こういう教育法も一方にはあるんですね。教化教育です。「教化(きょうか)」というと緩やかに時間をかけて、その中に入っているといつの間にか染まっていく。たいていの教育学者はそういうものを教育とは考えない。教育ではないと言い切っています。ぼくは、いや、そうじゃねーんじゃないか。これも教育の一つとして抱かかえていった方がいいんです。善い悪いの選択は後回しにして、こういう教育もある、という考え方をしたいと思うわけであります。これが全面教育学とは何かを考える際の第一番目のポイントです。

(2)全面性・全体性を回復する ── 教育の種をひろう
 二番目のポイントは全面性ということです。全面性の回復ということです。たとえば科学教育というものが一生懸命叫ばれるとしたら、科学以前の教育はなんであるのか。それ又以前の教育はどうであるのか。科学―前科学―非科学の三つを押さえないと、一つのテーマでも全体性を帯びてこない。だから科学的思考の教育ばっかり考えないで、それ以前の比喩・たとえ・コトワザ、そういう段階の思考教育も充実される必要があります。それを科学教育と結びつけて教える。「夕焼けは晴れ 朝焼けは雨」というコトワザは気象学と結びついています。またそれ以前の非科学の面は嫌われていますね。新聞なんかに出てくる科学者によるとこういうのは嘘っぱちということになりますが、神秘的な世界、非科学の世界がどのぐらい広い領域をもっているか。そのあたりにも教育の種を拾う必要があります。
 ぼくは戦争時代の最後の兵隊さんでした。そして見てきました。柳田さんも言っていましたが、徴兵検査があって軍隊に入っていくと、だいたい兵隊さんは世の中を見てくるんですな。ぼくも最後の特攻隊で一年軍隊にいましたけれども、そこで良かったことは世の中を見たことです。世の中を見たというのは、人のうらおもてを見て来たということです。どのくらいかっぱらいをやったか。どのくらい嘘ついたか。嘘は上手につかないといけない。こういうことを学んできましたね。それも教育の一つとして考える必要がある。そこに「裏街道教育」というテーマが浮かび上がってくるわけです。とにかく要領よく生きるなど、一生懸命やる以外にいかに弁証法的な側面をもっているか。軍隊での経験は、教育というよりは「救い」という面を持っているわけです。全面性・全体性というのは、うらおもて・周辺文化というものと一緒に見ないと、ひとつだけ強調してあぐらをかくということになりかねません。

(3)教育の本質は渡世法体得にあり ── 世渡りは戦略だ
 三番目のポイントは、教育の本質は何かという問いであります。答は世渡りを身につけるということです。この世を渡る。すごく良いイメージです。この世を渡っていくんだ、こういうことです。ぼくなど脳梗塞を三回ほどやりましたから、軽く済んだために、一回来るたんびに、またお迎えがいらしたかと思いました。それでもぶっ倒れますから近くのモノにしがみついてがんばりました。「大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせながら5分間ぐらいがまんすると、この辺(頭部)がビッビッとまた血液が流れてくれるんです。助かりました。まだお迎えは早いものー、といったところです。こういう神秘的な力というものも考えておきたい、そう思っているわけです。
 教育の本質は世渡りの仕方を身につけるということです。これを教育学的にかためると、「この世を渡るべく生き方を学び取り身につけそれを行使することである」。こうなります。世渡りをこういうふうに考えていきたい。世渡りを考えてみると、第一のご利益は楽しくなければならない。ぼく、みなさん方を見ていて、あの人はあんなに楽しく世渡りをしているわいと思うことがあります。子供でもそうです。砂場での遊びなどみていると、あの子はどうやって一人ぼっちにされたのか、仲間に入っているのかい、などと心配します。でも子供もすごい世渡りをしている。砂場で遊んでいてですね、一人がさみしく除け者にされて立っていたんですな。そしたら親分格の子供が出来上がった砂の作り物をワーッと壊してですね、「○○ちゃん、入れ!」とこう言ったんです。そしたら一人ぼっちでいた子はスーッと仲間に入っていっちゃったんですよ。この子はこういう世渡りをしているのかと感心したものです。人間研究・児童研究は世渡りの研究をしてみたらどうですか。こういうことになります。
 世渡りといえば、虫・草木もそうです。ミミズはこの陽の当たるときに乾いた地面の上をなんで移動してきたんだろうと思うことがあります。水が欲しいんだろうかねえ。生態学だの生活学などは止めて、あれは世渡りをしているんだ、なんとか生きて行こうとしているんだと見てみる。これは戦争中に使ったストラテジー、いわゆる戦略ということですな。ああいう戦略をもって現実の困難を突破しようとしているのか。こういうふうに考えることができます。教育の本質は、渡世法の体得なのです。

(4)ばっかり主義を克服する──ミミズの身になって考える
 ポイントの四つ目。虫の世渡り、草木の世渡りについて。この草はなんでいつも出てくるんだろう。根の強さでもって生きているのか。こういうふうに考えてきますと、次は「ばっかり主義」を克服しようという課題が浮上してきます。人間ばっかり主義。これは仕方ないです、人間だからね。それから科学ばっかり主義。ばっかり主義はその反対の価値を棄てていきます。だから棄ててしまうというもったいなさを掬い取っていきたい。
 ぼくの友だちでもあった生態学者の延原肇(のぶはら はじめ)さんという方が、千葉のほうにおりました。もう亡くなりましたが、生態学で、海岸植物の生き方の研究をやって博士号までとりました。延原さんのものの見方考え方というのは、ミミズの身になってミミズを考えるというものです。ミミズの研究をしながらミミズに怒られるのが怖い。まわりの学者から批判されようがミミズが喜んでくれるのを研究の励みとした人です。だから、シャーレの中になにか生きものを入れて、電気をかけたり光をビガッと当てたりしてその動きを見るというような、あんないじめるような研究は、本当の生態を明らかにすることにならない。これなどは科学ばっかり主義を克服したいきかた、成果だなと思います。

(5)死の教育を人間教育の中心に据える──世渡りが楽しくなる
 チラシ(レジュメ)の方、「体系」の枠組を見てください。
「死の教育」というところがあります。これが全面教育学とは何かについて五つめのポイントです。死の教育を反対からみれば「人間一生論」になります。この意味(内包)はですね、死を意識するという点にあります。死を意識させたい。そのご利益は世渡りが楽しくなること。外延は死の文化。葬式や法事から、年中行事から、人の一生から、死の文化というのは非常に豊かに存しています。ここから掘り取っていきたい。死の教育をこう設計し、人間教育の中心に据えているんです。

 死を意識する。死は非常に不思議なことですが、死の教育は全面教育学のなかではよく研究されたものの一つです。とくにさっき名前が出ました日下さんの教育実験ですな。「死の教育の試み」や「死の授業」。それから徳永さんの「小学生の君たちは死をどのように知るのか」や「中学校における『死の教育』の試み」。あとで機会がありましたら話してください。ぼくはだいたいの所まで築き上げたなという感じを持ちました。
 日下さんの教育実験は、死についての際どい側面をつまりあと1ヵ月の命だと宣告された場合に本人に知らせるかどうか、という深刻な問題。それから、蜘蛛の巣に蝶がひっかかっているがみんなはどうするか。また「一寸先は闇」というときの闇はどういうイメージかなどを探求しています。また徳永さんの教育実験は、自分の一生を、生まれてから死ぬまでを年表式につくってみるという試みです。そういうふうに死の教育ではどういう話題を提供するか、自分の一生を年表にするときどういう作業をさせるか。今後の仕事として残すべき財産だと思っています。

(6)俗信文化/「魂通り」を見直す──自分の精神をなだめる
 さて、みなさんは今ぼくの話を聞いていますね。これはいわば「表通り」だと思うんです。表通り。そして話が終わってしまい休憩時間になったりすると、これは「本音(裏)通り」。つまり表通りと裏通りという相があります。その下の段階にぼくは「魂通り」があるというふうに考えていますね。これが六つ目のポイントです。魂通りには、たとえばトイレに行くのが怖いとか、一人ぼっちになったときに恐怖を覚えるとか、死に直結するような世界があるんですな。そこに力を注いで子供たちに教えたり作らせたりしたいのは、「俗信」です。俗信というのは「普通の信仰」のことです。これは兆占禁呪と四つに分類されています。「兆(ちょう)」とは、予兆つまり知らせ。「占(せん)」とは、占い、前もって知りたい。「禁(きん)」とは、やってはいけないタブー。最後の「呪(じゅ)」とは、まじない。とくにこの「まじない」が大きな役割を果すだろう、今後の教育学や看護学においては見直すべき文化であろうと思います。
 「魂通り」教育の場面では、怖さを予防するなにか仕掛けの道具を持たせたり怖さを呼ぶ施設を改善したりすると同時に、怖いときに自分の精神をなだめる言葉などを意識していきたい。ぼくなど、脳梗塞になってブルブル震えてきたときに「大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ」と呼びかける。あるいは「南無観世音、南無観世音、南無観世音」と唱えてもいいし、「どうにかなる、どうにかなる、どうにかなる」と言ってもいい。こういう繰り返していく呪文を、子供たちに意識させ、また子供たちはこういう呪文をどう思っているか。どういう反応するか。こんな教育実験を進めていきたい。兆占禁呪のとくに「呪い」(まじない)あたりは今後の遺産になるだろうと思います。

(7)人間の有限性は 空想力で突破する──自分のための実践論
 全面教育学の最後のポイントです。
 教育学でも看護学でも「人間の無限の可能性」ということを言いますね。ぼくは、無限の可能性などはありません、という立場です。人間は有限です。限りがあるのです。なぜならば、人間は死ぬからです。どんな可能性があると思ったところで、死ぬときはコロッと逝ってしまいます。だから無限の可能性があると言われると、嬉しいけれどね──こんなこと、わざわざ持ち出さなくてもいいのです。群馬県の小学校に斉藤喜博さんという先生がいました。のちに教育学者になりました。この方の『教育学のすすめ』という本には、子供の無限の可能性を無限に伸ばすのが教育だ授業だ、という定義が書いてあります。いやあ、ぼくそれ読んだときには、斉藤喜博先生は尊敬しますけど、それは嘘だろうと、そんなバケモノみたいなことできるわけはありませんよ。(笑) そう思ったわけです。むしろ人間は有限なんです。自分の持ち物である内臓諸器官についてさえほとんど知らない。人間は有限なる存在なのです。
 だけど話はこの先があります。人間の有限性は実践論で乗り超えることができるんだ、人間はそのためのすごい実践論を持っていますよ。こう言いたいのであります。一つは現実的に乗り超える。もう一つは、現実的には乗り超えられない面、死というものが降りかかってくるからね。乗り超えられないからこそ、世界はどうなっているのか。ただ原子・分子で構成されているということでおさまっているのかといえばそうではなく、もっと何かがあるはずに違いないという人間の空想力・想像力・イメージ力が発揮されて、それが死の文化を形作っている。地獄や極楽(天国)の概念があり、あの世という把握もあり、物語がいっぱいありますね。大した文化遺産です。みなさんどうですか。ぼくなど、「お迎えが来る」などということが、実際存在しているのかと問われれば、「ある」と思ってるんです。「ある」と思った方が楽しいからです。ぼくも死んだら、祖父ちゃん祖母ちゃんのところに行けるだろう、こう思っています。「あの世」などという現実的には乗り超えられない世界については、人間は空想力で突破しているのです。これが人間の有限性を突破する実践論です。
 以上、全面教育学とは何かの問いに答えるいくつかのポイントをお話しました。


 Ⅱ.全面教育学の源流



(1)敗戦、一日で変わる世の中──乱世は人々がいきいきしていた
 全面教育学に辿りつく前に何を作ってきたか、全面教育学の源流についてお話します。レジュメの方に「乱世」ということを書いておきましたが、いやあ、とにかく天皇さん中心の皇国時代というものは、ある意味でほんとうにビッタリとしたすごい教育をやって支配していたもんです。すごい強制力があったし、みんなその気になったし、ぼくもそうでした。しかし、ぼくなどが驚いたのは、昭和20年8月15日の正午に終戦詔書の放送を聞いたあの日をもってほんとうに世の中がひっくり返ったことですね。兵隊の位を例にすると、二等兵・一等兵・上等兵・兵長そしてずうっと昇って中将・大将・元帥・大元帥と、あれだけの階級組織へ人々を駆り立てていた世の中が一日にして崩れるんですな。
 いやあ、すごく崩れるもんです。ものすごい山が崩れ落ちてきたような思いでした。当時、軍隊は溜まっていると何しでかすか分からないから、そこに置いておきませんね。内地だと、残った兵隊さんたちをサッサと故郷に帰すんですな。こういうこともあってぼくも帰りました。乱世ですね。まず食う心配があったのですが、一面すごくみんなイキイキしていました。
 ぼくはすぐに師範学校に編入しました。かなりたくさんの兵隊帰りがおりましたね。そこでは、いやあ、こういう机はぶっこわして燃やして・・・・、そして卒業していったものです。当時、現場の先生は少なかったので山形の師範学校からも卒業と同時にドッサリ東京神奈川千葉埼玉の学校にみな就職していきましたね。だから就職試験はなし。ぼくは師範学校を卒業した免許状も持たないで山形県の教員になりました。ぼくはその後上京し成城学園に就職したんですが、免許状をもたないと給料が少ないのでようやっと手に入れました。昭和28年までぼくは免許状をもたなかった。


(2)カリキュラム作りに励む──単元名が次々と出てくる柳田國男
 戦後すぐの小学校の現場ではどこも忙しく研究をしていたもんです。当時一生懸命やっていたのはカリキュラム作りです。どこの学校でも学校独自のものを出そうと努力していました。ところがそれはたいてい上手くいきませんな。それでもまとめたのは、全国でも何10校とあります。山形県の学校でも五つ六つ出ました。ぼくの学校でも取り組み、教育カリキュラムというのはああやって作り実践するのかという体験をしましたが、上手くいかなかったですね。
そして成城学園に参りました。そしたらちょうど社会科作りに取り組んでいました。昭和24年です。そのときぼくは何をしようか、宗教教育をしようと考えていたこともあったんですが、校長さんが「なにウロウロしてるんだ。少し勉強してみろ」と言って連れて行ってくれたのが、柳田國男さんの家でした。昭和22年6月ころから成城の先生たちは柳田國男さんの民俗学研究所に通い毎日社会科作りに取り組んでいる。おまえも入れということで、昭和24年の9月に初めて柳田さんを見ました。民俗学などというのも知らないし、お会いするのも初めてでしたから、もう見た瞬間は、ただ頭の大きい人だなーということだけ驚いてしまって。(笑) 地方では、あんなに社会調査・児童調査をやりながら、それをタテヨコに配置し接点で単元を選ぶなどという研究をヒーヒー言いながらやっていたのに、こっちでは、柳田さんの口からヒョロヒョロと単元名が出てくるんですな。これには驚きました。

(3)基礎学力を保障したうえでの教育実験──嘘をつくのも大切
 そしてぼくが成城に来た昭和24年には、柳田さんの下でだいたいプランができていました。ぼくが参加する前は、およそ12校くらいの、社会科教育のプランを研究している花形学校というのがありまして、その成果を取り入れながら、だいたいの下準備は終わっていた頃です。このなかで第一番は東京の桜田小学校プランでした。社会科教育については素晴らしかったですね。ぼくらも授業を見に行きました。行って見ると机が遠方形に並べられていたりして非常に華々しい社会科の授業でした。いや、すごいもんだと、室井ミツヨシ先生など、まだ名前覚えておりますもん。
 成城学園の小学校では先生たちが外に授業参観にいくと一日ビッチリ見てくるということになっていました。もちろんお昼が過ぎるとサッサと帰る先生もいますし、残る先生もいます。ぼくも昼食後残りました。そして午後また教室を参観にまわりました。そして驚いたのは、午前中の華々しい教育はすっかり影をひそめて一斉にドリルをやっていることでした。室井先生の教室では、黒板に分数の掛け算割り算が10題くらい並んでいて、それを子供に解かせているんですな。シーンとしていました。そこでぼくはナルホドと思ったんです。ハアー、新教育の華々しい裏で基礎学力というものをこんなに徹底してやっているのだ。こう思いました。
 それ以来、ぼくは自分がなにか教育実験をしたいと、つまり文部省に言われているとか、指導要領にあるとかではなくて、自分でなにかやってみたいと思ったときは、自分の担任している親たちに対して、一度は堂々と自分の考えを演説する、こういうことをやるんだと明示するようにしました。そして読み書きそろばんについては絶対に手を緩めない。それが表立っていれば親からの文句は出ようがない、そのくらいまでやっておいてから教育実験は取り組むべきものだと思っています。ひとつやってみてください。
 これからも上からの締め付けはもっと大きくなるでしょう。あんまり締め付けが酷いようなら、嘘をつくことを憶えることです。「指導要領通りにやっているか」「教科書通りにやっているか」。こう問われたら「やってます」と言って、やらないことです。(笑) そして基礎学力の部分は逃さずしっかりやることです。毎日、計算なり練習のためのテストだけはやるのです。5~10題くらい毎日やってその日のうちに丸つけて返すのです。ぼくの教育実験はこういうことをやっておいて取り組んだのです。だから嘘をつくということはある面、重要なことなんです。

(4)握り切れなかった柳田社会科の思想──亡くなって知るすごさ
 さて、柳田さんのところで社会科の単元作りをやってきましたね。そして昭和26年に内容を発表しました。ガリ版刷りの専門家による分厚い冊子になりました。40くらいの単元を柳田さんが作りました。児童の発達という問題はどうか。柳田さんは、「児童語彙」すなわち子供だけに使われる言葉を集め分類し排列して、たとえば遊びの段階を表す「口遊び」「軒遊び」「外遊び」などの言葉によってその発達過程を握っておりますから、学年間の段落設定も適切でよかったです。
 たとえば、第2学年ではより感覚的な面を大事にして、「遠さ近さ」という単元が設定されています。また「古さ新しさ」などは、柳田さんでないと出せない単元だと思います。「古い新しい」「遠い近い」ということをどうやって小学2年生に教えていくか。また6年生になってきますとですね、「貿易」「世界の人々」「正義」「平和」という単元がありますが、なかでもすごいのは「人の一生」という単元が設定してあることです。これは継承できるんです。
 当時ぼくは理科研究と社会科研究に関わっていたんですが、社会科の人たち5,6人と単元一つひとつについて柳田さんの講義を受けました。これがほんとよかった。だけど、ほとんどわかんなかった。(笑) わかったのは亡くなってからですね。だから今ではあの柳田さんの作った社会科の単元がすごい遺産ですと言えます。柳田さんはその後、実業の日本社から『日本の社会』という教科書を作るんです。これ小学校篇はできあがりましたね。ぼくなどが担当したのは、『指導の手引き』というやつです。単元ごとにどういう授業を展開するかということを書きました。で、出来上がりましたね。はじめの年は売れたんです。でも次の年から売れなくなってきましたね。教科書は競争が激しいということで、ついに昭和36年度で柳田社会科の教科書は消えました。
 ぼくら成城学園の小学校では、そのあと柳田社会科を続けるかどうか討議しました。たしか昭和37年に柳田さんが亡くなります。享年88歳でした。そういうこともあるし、教科書も手に入らない。「あんたたち柳田社会科を背負っていけるか」と問われると、ぼくも「やーめた」という側に回って(笑)、いやあ、悪いことしちゃったと思っています。ほんと、当時は柳田社会科、柳田さんの学問、それから教育観・児童観、それから世渡り観というものについて、きちっと握っていなかったんですなあ。告別式が済んで、柳田國男という人はえらことをやっていたんだいと気づいて、教科書から何から柳田社会科の資料を集められるだけ、集めました。だから、ぼくらは拾い切れなかったんですよ。そして成城学園では学校図書の教科書に乗り換えちゃったんです。

(5)柳田國男の児童観・教育観を継承する──例えば「人間一生論」
 だけど、柳田社会科の単元「人の一生」については、ぼくは継承できるように「人間一生論」として理論化しました。柳田さんのそれは、生きている間、人には回りの世話にならなきゃいけない時代がある。赤ちゃん時代~年寄り時代は、病気あるいは妊娠で人の世話にならなきゃならない。こういうことを伝えるとともに、人の一生には節目があるんだということで少年時代、○○時代として生きている人の姿を描いたものです。ぼくはこれに付け加えて、「コトワザの人間一生論」という形で、人の一生をコトワザではどう言い伝えてきたかを整頓しました。それから人の一生を科学の面からみてみると大脳の発達の問題があります。このように人間の一生については、科学―前科学―非科学という段階として捉えることができます。柳田さんの「人の一生」はだいたい非科学面を押さえています。お祝いなど儀式として行なわれますから。ついでコトワザ人間一生論という前科学。大脳研究などの科学的知見。ぼくの人間一生論は、以上の三者をまとめあげてあります。
 ぼくが柳田國男さんに会ったというのは非常に大きかった。亡くなってから勉強し始めましたからね。柳田さんの児童観・教育観、教育観は世渡り観を学びました。児童観はといえば、子供は言葉を作り出す、子供は昔を残す、こういうものでした。それを継承して柳田國男の教育観・児童観を明らかにしてきました。

(6)柳田国語科も見逃せない ──「昔の国語教育」を教育実験に
 さらに、柳田さんたちは社会科の教科書を作る前に、国語科の教科書を作っていたんですな。柳田さんは「昔の国語教育」を発見したんですよ。謎・諺・唱など、いっぱいあるんです。また「口上」という子供教育もありましたね。たとえばお母さんが、ぼたもちを作ったから○○さんの家にもって行きなさい、と子供に命じるんです。そのとき「これこれこういうわけでぼたもちを作りましたから、召し上がってください」というように口上を教えるんですね。そして子供に言わせてから出してやるんですね。子供は駄賃をもらったりして帰って来るんです。これは口上教育。ハアー、そういう国語教育があるのか。これと似たようなのは軍隊での「復唱」義務がありました。人に何かを伝えるというのは、そのくらいの折り目をつけなくてはならない。昔の国語教育の一端です。
 柳田さんは昔の国語教育を明らかにしました。逆に言えば、これまであまり意識されなかった昔の国語教育を発見したんです。近代学校教育のなかにこれらの良い所を受け入れたい、そうぼくは思っているわけです。柳田さん編集の教科書や、国語教育関係の著作、子供向けの著作を「柳田国語科」と位置づけて、その良い所を教育実験の課題にしていきたいと思っているわけです。

(7)仮説実験授業との出会う ── 自分で単元が作りだせるか
 柳田さんが亡くなって以降、ぼくは柳田さんの資料を集めたり民俗学の書物を読んだりしていましたが、そこに上廻昭(かみさこ あきら)という人がぼくを「仮説実験授業」に誘ってくれたんです。当時成城の理科教育は、「遊び」「散歩」そして生物分野の経験学習はかなりやっておりました。こういうところに、上廻さんが「仮説実験授業を一緒にやらないか」と言ってくれたわけです。そこで板倉聖宣(いたくら きよのぶ)という人に会いました。これまた、児童調査・社会調査なしで単元の出せる人でした。いやー、(柳田さん以外にも)いるんだと思いました。だから我々は専門領域を持たないと、ただ教育学やなんかをやったくらいでは単元などは出てこないのです。何を学習させるべきか、何を教えるべきか。方法やなんかは作れますから、肝心の中身、何を学習させるか、教育内容が大事です。自分の単元が出せるという一分野くらいは確立させたいものです。自分の好きな分野ね。
 仮説実験授業というのは、科学の基本的概念・法則を、予想・仮説のもとに討論し、実験で決着をつけるというものです。ぼくはこれを、夜も寝ないで昼は昼寝、一升瓶を傍におきながら記録をとってだいたい仮説実験授業の基礎理論は5年くらいで仕上げましたね。みなさんに今日お渡しした『仮説実験授業と認識の理論 増補版』(季節社)は、その成果の一部です。これ以前に、成城での子供たちに最初に仮説実験授業を試みたときの綿密にとった記録を打ち出したのが『仮説実験授業』(国土社)です。昭和40年のことでした。柳田さんが亡くなったのが昭和37年。

(8)科学とは何かをガッテンする──自分の素晴らしさを見つける
 ぼくは仮説実験授業をやって、科学・サイエンスとは何かということがわかったんです。それは板倉さんに訊いて合点して悟りを開いたのですが、「科学は相手の素晴らしさを見るんじゃない。科学者やだれかの素晴らしさを見るんじゃなくて、俺の素晴らしさを見つけるんだ」というものでした。だから授業記録は、「俺が考えられるようになった」という観点で記録を取ったのです。
 いちばん成功したのは静力学の授業でした。すべての物には重さがある。これは近代科学を成立させた質量の概念ですね。重さがあるとは地球が引っぱることだ。物を落とすと落ちる。これは何で? 地球が引っぱるから。じゃ、なんで引っぱったあと、物は地面を突き抜けて落ちて行かないのか。それは地面(地球)がヨイショと反力を出すから物は地面の上で静止する。地球は機械的物理的で自分の気持ちを持っていないから10グラムの力で押せば10グラム分の力でしか押し返さない。答えの出る世界なんです。力の原理です。これを知ってしまうと「浮力」「摩擦力」「滑車」「仕事量」そして「エネルギー」と繋がっていきます。ぼくがやったのは「摩擦力」あたりまでね。いやー、それは上手くいきました。子供の授業への歓迎度も成績もすごかったです。教育実験ですから予想をもって取り組みました。だから歓迎度が8割、成績は教えた分の8割はとる。8割ラインを成功とみなす、これでサイエンスができる、というふうにしたわけです。

(9)ソビエトを訪問して指摘される──仮説実験授業は時間がかかる
 昭和40年、その頃ロシアはソビエト時代です。国交はありません。当時の日本社会党を通して日本の教育者と芸術家を10人ぐらい呼びたいという話がありました。三浦つとむさんが「お前行ったらどう」ということで行ってきました。そのとき板倉聖宣さんが、仮説実験授業とは何かを英文で一枚の文書にしてくれました。それと最初にできた『仮説実験授業』(国土社)をもって行ったんです。
 あちらでは、全ソビエト科学アカデミーつまり総文部省だね、ここに行ってぼく渡したんですよ。マルクシ・ウェーチという人に、あちらの数学者でした。そしたら英文の方をさらっと読んで、ぼくの本も、実験した結果の表とか写真とかをさらさらと見てね、こう言いました。「すごく素晴らしい。これは非常にいいことです」と。なるほどソビエトが認めてくれるんかい、そう思ったら、「だが、ソビエトではやりません。一つは我々もすでにデューイの思想によって予想を立てて進める学習はやりました。あれは良いものです」と。第二番目がすごい。「第二に、これは時間がかかってしようがありません。だからやりません」と、こう言われちゃいました。ソビエトは(先進国に)追いつき追い越せと詰め込み教育はきちんとやっているから、こういう科学教育はやりません。こういう話でした。
 ぼく、通訳の話を聞いていて、まあ、ちゃんと(弱点を)つくもんだなあと、ある意味感心しちゃったですよ。その数学者がもうすぐ自分の『数学教育論』ができるから、送ってあげますと言ったんですが、ついに送られてきませんでした。そのうちソビエトはつぶれてしまいましたね(笑)。

(10)三浦つとむに教えられる──子供たちは論理の勝負をしている
 そうか。仮説実験授業は、授業書を与え問題を読ませ予想を立て討論をして実験で決着つけるという進め方ですから、討論の時間をえらく喰うんです。とくにおしゃべりの好きな子供あるいは先生が発言を強要するようなクラスだと、一つの問題を2時間もやります。次の日まで続くこともあります。時間がかかるんです。だからある人は討論をやらないでサッサカ サッサカやって進めます。あとで討論をやったクラスとやらなかったクラスを、試験してみたところが、だいたい同じだったんです。(笑)
 すると、何が違うのかということになります。それは論理力ですな。今日お渡しした『仮説実験授業と認識の理論 増補版』(季節社)の「増補新装版へのはしがき」に書いておきましたが、これを教えてくれたのは三浦つとむさんでした。板倉聖宣さんが三浦さんを連れて来てくれたんですよ。初めて会いました。それで三浦さんの奥さんと三人で帰ってきたんですが、電車では三浦さんと向かい合って坐りました。そしたら三浦さんはかなり大きな声を出して喋るひとでした。三浦さんは、「庄司さん、論理ですよ」とデッカイ声で言ってくれたんですよ。子供たちはただお喋りをしているんじゃありません。論理の勝負をしている。こう言ったんですな。そのあと、授業記録を三浦さんに送るとすごく歓んでくれました。

(11)コトワザ教育を始める──前科学的論理を自覚し、三段階理論へ
 そしてこういう科学教育を研究しているうちに、それ以前の前科学段階の教育に目が向くようになったんです。すなわちコトワザ教育が始まっていくんですよ。コトワザは子供たちがすごく歓迎してくれました。その後、卒業した子のクラス会などに行ってみるとね、仮説実験授業よりもコトワザ教育の思い出の方を語ってくれますな。そのくらいコトワザというのはおもしろいもんです。 
 そこから科学、前科学の各段階がはっきりしてきて、成城の体験学習を宗教に置き換えそれを非科学と捉え直すと、<科学―前科学―非科学>となりそこから認識の三段階論を発見していくんです。それがレジュメの二枚目にある「認識論体系」となって出来上がっていくんです。
 まず認識原論。これは人間論から始まります。人間は有限である。しかし、それを突破する限界突破力はすごい。これが実践論。人間の実践を後ろから動かしているのが認識だ。その認識のカラクリ。出来上がった科学的認識。それに続く前科学的認識、非科学認識があります。これらは30年40年と看護学校での教育実験を経てだいたいよろしいということになります。いやちょうど時間が来ましたね(笑)。

(8)次の世代の人たちへ──「変わります。世の中は諸行無常です」
 ひとつ嘘をつくことも覚えながら、勝手なことをやっていった方がいいですよ(笑)。今の教育などこのまま続くとは思いません。今は乱世です。だから、創造的・独創的にひとのやらないことをやってみるということです。やれますよ。なに、指導要領が一番良いわけではありません。教育制度もこのままではありません。変わります。そこを柳田さんは、「変わりますよ。世の中は諸行無常ですよ」と教えてくれたんです。良かったねー。(笑)
(拍手)


司会 庄司先生ありがとうございました。わたしたちも初めて聞くお話がずい分ありました。聞いていて分からない名前がでてきて戸惑った方もおいでだとは思いますが、先生の著作等で補っていただければなと思います。では花束贈呈ということで、小林千枝子さんから先生にお願いします。(拍手)

小林 田舎から出てきたもので、プレゼントもあります。わたし、全面研の立ち上げメンバーに連ねさせていただいた小林と申します。先生のお話を聞いて改めてわたしらしくやろうと思いました。それが先生に教えをいただいて、いまこうして教育学を教えている者にとってのわたしなりの検証なのかなと思いました。きょうはほんとにありがとうございました。また次回の30周年の集会までには、成長したいし、わたしらしく図太くありたいと思いました。また先生とお会いしたいです。花束贈呈(拍手)
(2008/12/13 於 成城大学)

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庄司学・出会いと学びの諸相 
 

☆ 小 田 富 英
 出会いのキーワードは、「一言でいう」です。出会ったとき、私は「柳田國男の社会科」をやりたいと言いますと、先生は「小田さん、社会科を一言で言うと何ですか」と聞かれ、ドキッとしました。私は「世間」だと答えた覚えがあります。
 わたしたちが庄司先生に出会った頃、先生は教育学者のなかでかなりユニークな立場におられたと思います。教育学者はたくさんいますが、庄司先生は文部省お抱えの学者でもないし、革新団体のお抱えの学者でもなし、民間の小学校の教員からコツコツ努力されて、自分の学問を打ち立てられ大学の先生になられた方です。たしか、理科教員の研究集会であったと思います。参加者から「最近の子供は変わってきた。ニワトリの絵を4本足で描く子が多くなってきた」という報告があり、「それは体験不足ではないのか」という声があちこちから聞こえてきたとき、庄司先生はそういう発想からではなくて、4本足のニワトリを描いている子供がいたら、「おもしろい」というところからスタートできないのかと話されたんです。そういうふうに考える先生がいることに驚きました。当時、わたしは柳田國男の研究もしていたのですが、庄司先生の柳田研究や教育研究に憧れながら門を叩いたのです。
 具体的には、都立大学の夜間ゼミ(小沢有作ゼミ)に庄司先生の講義がありまして、今日の集会に参加されている小林千枝子さん(作新学院大学)。三石さん(東京学芸大学)、三石さんには今集会のチラシを大学で配ってもらいました。それから金沢にお住まいの方、そして植垣さんとわたしと5人で始めたのが全面教育学研究会でした。たった5人で始めた研究会がこんなに長く続きこんなに大勢の方が集まれるような会になるとは、はじめは思っていませんでした。しかしふりかえってみると、わたしたちの力不足で、次の世代に庄司先生の学問を伝えて来なかった。さっき司会の向井さんは「検証」という言葉を使いましたが、これまでの歩みを反省しながら、次の世代の人たちに伝えていけるような集会にしたいと思いました。

☆ 武 田 恭 宗
 庄司先生との出会いのキーワードは「印象教育」です。
庄司先生が成城に来られた頃を調べてみますと、とても印象的なことを述べておられます。それは「具体からの出発」ということで、これを成城教育の原則とみると言って居られました。やはり具体から抽象へです。抽象論ばかりではどうしようもない。「実際」とか「実践」ということを強調なさっています。ここから理論へ進むべきだということです。成城学園の創立者の沢柳政太郎先生も「実際的教育学」を提唱しています。理屈だけじゃない実際的でなければいけないわけです。庄司先生も例えば低学年の「理科」教育あるいは「散歩」の時間などを通して実際的教育学を研究されています。
 私が成城に来た37年前に庄司先生からいただいたのが『印象教育』という本です。それ以来、「心に残る教育」が私のめざす実際的教育学の一つになっています。やはり「魂に触れる」こと、これが私と庄司先生との出会いだった、そう思います。

☆ 原  信 也
 先ほど庄司先生から「好き勝手にやったらいいですよ」というお話がありましたが、私は小学校の教員だったのですが、絵本を作ってみたり、音楽に夢中になってみたり、それから整体をやってみたり、現在は整体療法を仕事にしています。幸せなことに、月に一回庄司先生宅にうかがって整体をやらせてもらいながらいろんな話を聞かせてもらっています。主に頭を緩めることを中心にした話題ですね。
 さて私と庄司先生との出会いは、これ。象形文字で表してみました。「赤い糸で結ばれていた」ということです。お会いしたのは20代の終わりの頃でしたが、ちがった言い方をしますと何よりも「波長が合う」ということでした。朝日カルチャーセンターで話を聞いたことに始まります。犬が鼻をくんくんさせて擦り寄っていくみたいに私は動物的直観で先生に出会ったような気がします。頭で考えたのではなく感覚的なところで出会い、今日まで続いているということです。

☆ 向 井 吉 人
 私の出会いのキーワードは、「手紙」です。
 先ほどガリ版刷りの冊子の話がありましたが、私は大学時代からこういう冊子つくりをしていました。1979年頃、仮説実験授業の中心になっている仮説会館で私の言葉遊びや教育論になどの冊子を見つけて下さいまして、「送って欲しい」というお葉書をいただきました。送ったらすぐにお返事が来て、感想と私への励ましが綴られていました。それ以来30年、私が学級便りだとかの冊子を送るたびにいただいたお葉書が五〇通ほどになります。このなかでいちばんすごいと思うのは、冊子をお送りすると5日以内にお葉書が来ることです。これはちょっと真似ができない。本当に師というのはこのような方を言うのではなかろうかと思います。

☆ 篠 原 賢 朗
 私と庄司先生との出会いはこんな言葉から始まりました。「科学・非科学」。私は昭和53年に大東文化大学に入学するんですが、庄司先生はたしか前年に大学に来られたと思います。私が大学2年のときに「教育学原論」の講義を受けました。私は現在小学校の教員ですが、その教育を学ぶ最初の哲学を庄司先生から学ぶことができました。3年生になるとゼミを選択するのですが、私は庄司先生のゼミを受けたいと思っていました。そのときのテーマは「仮説実験授業と柳田学」というものでした。しかしこのテーマの意味がよくわからなかったので、教員控え室に先生を訪ねました。いつものメモ用紙を出されて「科学・非科学」という話を伺ったのですが、当時はよくわかりませんでした。いまでも当時先生からいただいたメモ用紙を大事にとってあります。
 大学時代にやったことは何かと言いますと、キッカケ言葉による認識のノボリ・オリを分析した授業記録、あるいは植垣先生のコトワザ授業の参観、また大学院で「柳田國男の社会科」という先生の講義にも参加させてもらいました。また理科の教材研究なども先生に教わったわけです。
そのあと私はどんな教員生活をしてきたかと申しますと、30年近くなるんですが、毎日やってきたことはコトワザを毎日一個ずつ教えることです。現在の受け持ちは234年生の持ち上がりの学級です。3年間も担任しますと、一日一個だったコトワザも積み重なってきまして、江戸いろは、上方いろは、それから先生が編集なさった五〇音ことわざに取り組んできました。先生のものには弁証法ことわざも収録されていますので、朝から弁証法の話をするような日常です。そして1995年に初めて全面研に参加しました。この年に『地獄の教育論』をまとめました。キリスト教、イスラム教、仏教それぞれに見る地獄論を子供たちに教えたいと思いました。またこの年に『弁証法的道徳教育論』をまとめました。これは、「道徳教育をやってこい」ということで、一年間大東文化大学に内地留学させてもらったのですが、これをまとめたものです。
 全面研に参加させてもらいながらやってきたことは、「俗信教育」でした。謎解き、唱えごと、ばけものなどに取り組んできました。最近は庄司先生の話にもありました「人の道一生論」をやりたいと思っていまして、去年(2007)に『子育て観にみる子育て教育論』をまとめました。

☆ 石 毛 拓 郎
 私、2月に所沢で焼き物の個展を開きまして、庄司さんだけに案内状を差し上げました。それは見て貰いたいものがあったからです。それは骨壷です。いや、厭味で言っているのではなく(笑)、当日は「骨壷ですよ」とは言い切れなかったので、今話しているのですが。今はその話ではないですよね。(笑)
 出会いですが、まずそこにいる原という奴が、私の同僚だったのです。私は民間で働いていましたが病気をしまして、玉川大学の通信教育で教員免許をとりました。横浜に住んでいたのですが埼玉でしか採用してもらえず、所沢に赴任しました。何年かたったら、川越の方から原という男が来ていました。これと気が合って──赤い糸かなと思うのですが(笑)、それである日、「全面研というのがあるんだけど行って見ないか」と誘われて出かけたのです。だから、私は「いいかげん」なんです。「いいかげん」というのは、本当は「良い加減」と言ったほうがいいと思いますが、そういう付き合い方なので、学校のことには興味がなくて、また教えることにも一切興味がなくて、だからクビにならないようにいつも嘘をついて生き延びて来ました。でも、ちょっと斜に構えたところもあるので、埼玉で8年間、原と一緒に裁判闘争をやっていました。どう言う裁判闘争かといいますと、話が二三日かかるのでここでは話しませんが、唯一庄司先生から教えていただいたのは、崇高な考えも崇高な思想も、話し方が下手だと悪い影響がある、ちっとも注目されない。これが今でも私の座右の言葉になっています。
 子供たちを面前にして、あるいは大人を面前にしてどうやって調伏するか。それは話芸で決まる。そう思います。内実なんかどうでもいいのです(笑)。庄司さんからは「煙に巻く」という方法を教えてもらいました。先ほどの話も「煙に巻く」ような話ですよね(笑)。中にそう思っている人もいるんじゃないでしょうか。私もこういう風に裁判闘争を闘ってきました。疲れて原は辞めましたけれども私は教員を引退したのにまだやっています。それは庄司さんが喋り方を上手く使えと教えてくれたお蔭です。ウソもマコトも出たとこ勝負。ということで終わりにします。

☆ 道 岡 義 経
 小学校の教員をしている道岡と申します。ぼくは庄司先生の孫弟子にあたります。これはどういうことかといいますと、ここに並んでいる全面研の皆さんが、かつて庄司先生に出会ったときに、赤い糸を感じたように、ぼくは庄司先生と出会う前に尾崎先生と出会いまして、尾崎先生に赤い糸を感じてしまったんです。初任のときでした。教師にとどまらず生き方がハクイ先生で、ぼくもこんな風に生きてみたいなと強く思いました。尾崎先生のことをもっと知りたい、頭のてっぺんから足の先まで、いや頭のてっぺんだけでも尾崎先生になりたい。この願いはすぐに叶えられました(笑)。尾崎先生ってどういう人なんだろう。ぼくは尾崎先生のストーカーになりました。ストーカーを繰り返す中で、庄司先生とその弟子の皆さんと出会ったのです。
 ぼくが最初に読ませていただいた庄司先生の本は、『全面教育学入門』(明治図書1994)なんですが、そこに「反面教師も立派に教育している」というすごい言葉があって、ぼくは何度もピンチに救ってもらいました。庄司先生だけでなく、また弟子の皆さんにも、例えば植垣さんの授業に憧れ、向井さんの批評に憧れてきました。庄司先生はもちろんですが、お弟子さんたちも庄司先生と同じくらいかっこいいなと思っています。

☆ 登  麻 美
 私は全面研が始まった頃にこの世に生まれてきた世代です。いま道岡さんが話されたように、第三世代です。庄司先生に憧れて集まってきた人に憧れて私も全面研の門を叩きました。横浜で小学校の教師をやって5年目です。
 子供たちとの距離の取り方に苦労した初任の一年間。それまでの人生で叱られたり失敗したりしたことのない、このフニャフニャの私が、ギャングエイジの腕白な子供たちとのガチンコでだいぶ疲れました。10歳未満の小学生に蹴られ、殴られ、怒鳴られて泣きながらの担任でした。そのときに真剣に向き合ってくれたのが指導教官の植垣先生でした。「子供って憎らしいんだけれど、可愛いところあるんだよ」というのが先生の口癖で、その意味をたっぷり体感させてもらいました。そして自分の気持ちを書くことによって自分を解放することの楽しさを知った頃、この全面研に参加しました。
 私のキーワードは「けもの道」です。昨日とは違う何かを見つけ、学校からはぶっ飛んだ存在のこの研究会。私がめざすところへ行くための道は、今までの舗装された歩きやすい道路ではなくて、叢をがさごそさせて作っていく、庄司先生とこの研究会が歩んできたような厳しいけもの道なんだといいことを実感しました。

☆ 長 谷 川 孝
 みなさんキーワードを準備されてきたようですが、私はいつも出たとこ勝負がいつものやり方なのです。私の紹介に「仏教教育学の」という形容が紹介されているんですが、これを考えてはいるんですが、これよりぼくがずっと考えてきたのは「まなび学」です。「まなぶ」ということを主軸において教育を捉え直すとどういうことになるかというテーマです。
 特に年とったからではなくて、私は若い頃からだいたい去年より以前のことはたいていごちゃごちゃ一緒くたになってしまいます。10年前のことと去年のことが区別がつかなくなってしまいます。こんな調子ですから、庄司先生との出会いを振り返ってみても、三浦つとむさんとの出会いが先なのかどうか迷ってしまいますが、・・・どうも三浦つとむさんから庄司さんを紹介してもらったような気がします。三浦さんの学問を消化し切っているわけではないのですが、三浦さんの学問からの衝撃があって、その三浦さんが引き合わせてくださったのです。その衝撃というのを、一言で言えば「あれもこれも」という捉え方だったと思います。三浦さんが巻頭文を寄稿してくださった全面研の本(『全面教育学vol.1』)ができたとき、三浦さんのところへ持って行ったことも思い出しました。こうふりかえってみると、私と庄司さんとの出会いのキーワードはやはり「三浦つとむ」ということになります。私の頭の中では「庄司和晃=三浦つとむ」という観念ができています。
 で、私が考えてきたことは「まなぶ」ということですが、この間、江戸時代の寺子屋の教育は、いま流行のフィンランドの教育そのものだったという話を聞きましたが、ぼくもそう思います。一斉授業の方式になったのは明治に入ってからです。寺子屋では子供たちがあっちこっちに勝手に坐っているんです。フィンランドの小学校でもそうでした。そういう「まなびの文化」というのをきちんと考えていきたいな。これをまともに考えることのできるグループというのは、ここ(全面研)しかない。これが実感です。ふつうの教育学の先生に、教育とは独立した領域として「まなび」の世界というものがあるんだということが伝わりません。ここの会は伝わります。ごらんになってわかると思いますが、一風変わっているというか、個性的な人たちが自由に集まって議論しています。どうして集まってくるのか。それは庄司先生の包容力にあると思います。どんな人が来ても「ここがいいですなあ」と褒めてくださいます。出会いというとこんなことを考えました。

☆ 徳 永 忠 雄
 世相史研究会の徳永といいます。私の出会いのキーワードは「二階から目薬」です。私は現在中学校の教員ですが以前は小学校に勤めていました。全面研に参加した頃はみんな植垣さんを中心コトワザ教育をやっていましたので、私もさっそく小学生にコトワザを教えました。6年生の担任のとき悪ガキが3人ほどクラスにいたのですが、ある朝、「二階から目薬」を紹介すると、彼らが「先生、やってみようよ」というので、保健室から目薬を持ってきて、悪ガキが三人二階に居て、私と他の子供たちは下にいて目を大きく開けて待っていました。「二階から目薬」というのは、やっても無駄だとか、不可能という意味なのですが、ところがどういうわけか入っちゃったのですよね(笑)。子供たちは二回目ぐらいで「入った、入った」なんて騒いでいるわけです。意味がちがってくるので私は大変困りました。そこで窮して意味を「やればできるんだ」と変えました(笑)。失敗の授業で私には冷や汗ものだったのですが、研究会で報告しますと、庄司先生は「これは面白い」と褒めてくださいました。それ以後、私は庄司先生に褒めてもらいたくて毎月全面研に通ったというような次第です。

☆ 植 垣 一 彦
 庄司先生との出会いの私のキーワードは「コトワザ教育の継承」です。「展開のある授業の試み」というのが副題です。どういう事かと言いますと、先ほど登さんの初任当時の話に泣けてしょうがなかったんですが、日下さんの話にもあったように、私たちが庄司先生のお宅に伺ったときは、私は教師を辞めたいと思っていた時期でした。でも、初めてお目にかかったにもかかわらず、日本に庄司先生のような人がいるということが大きな救いでした。こういう先生がいるのならもうちょっと教師を続けてみようと思いました。そして、コトワザ教育を継承しようと決心したわけです。
 庄司先生のコトワザ教育関係の書物には、「展開のある授業」とか「立ち回り」はあまり必要でないと書いてあるんですね。そこを逆に掘り下げてみたいと思ったんです。つまり「ぼくが展開のある授業を作るぞ」、そう思ったのです。もうひとつ、「立ち回り」もしたい。「あまり必要でない」と書いてあるんですけど、「あまり」ということは「少しは必要」ということですから、「そこはぼくが切り拓くぞ」と思ったわけです。おかげでずっと教師を続けることができたと思っています。

☆ 尾 崎 光 弘
 小学校教員を昨年度で退職した尾崎です。私のキーワードは「中途半端」です。
30代のはじめの頃です。子供の言語習得に興味があったものの、何をやっても中途半端。教員としてはそろそろ何か自分の軸になるものが欲しいと思っていました。そんな時、庄司先生にお会いする機会があり、自分の悩みを話すと、すかさず先生は「中途半端はワルイことばかりではありません。中途半端には可能性があるんです」と認識の中間的性格を語ってくださいました。私は心底、驚き、かつ感動して、師匠はこの方だと固く心に決めました。・・・イヤー、帰り道はほんとコーフンしました。生涯忘れられない体験です。

☆ 日 下 義 明
 庄司先生にお久しぶりにお会い出来ることがとても嬉しいです。私が先生に最初にお会いしたのが31年前で、先生から学ばせていただいたことが、私の教育の原点になっています。

☆ 花 田 伯 子
 キーワードは「露は一樹の下にあり」(中村草田男の句より)。野に立つ一本の木の下草に結ばれた凛々と世界を映してこごるあした露のように、小人もせせこましいイデオロギーも、そのまま浄玻璃に映し出されてしまう。そのような畏敬の念を抱き続けることができたことを、私の人生の幸いと思っています。

☆ 今 井 誠
 青森県弘前市から参りました今井誠といいます。今年の8月に私の姉から「もう一度助けてくれ」という話がありました。どういうことかと言いますと、うちの姉は誕生するとき、足を引っぱられて生まれてきたせいか、左足が長く右足が短いのです。それで今から20年前ぐらいに長年使ってきた股関節がどうにもならなくなって、病院では手術しなければ駄目だということになったのですが、私は手術に反対しました。手術してもまた再発し寝たきりになることを危惧したからです。私には自分で学んだ独自の治療方針(磯貝療法)があったのですが、そこで私がどうして治療方針を出すことができたのかと申しますと、「認識の三段階連関理論」があったからです。私と庄司先生との出会いをキーワードにすれば、それは「抽象論」ということになります。武田さんは庄司先生から学んだものということを「具体から抽象へ」と話されていましたが、私の場合は「抽象から具体へ」です。
 「認識の三段階連関理論」をナイチンゲールの看護本質論に適用すると、治療学とは何かというのは、私みたいな素人でも見えてくるんですよ。それで姉が今年の8月に乳癌になって「もう一度助けてくれ」と言って来たので、病気治しの一般論と乳癌の一般論から乳癌治療の具体策を考えていこうと思っています。オリルことの大切さです。


Ⅱ.認識の三段階連関理論を学ぶ

☆ 原  信 也
 私も抽象から具体へ、つまり「オリルことの大切さ」というのを教えていただきました。20代の後半でしたから、私はことごとく「ノボル(抽象化)」ことに夢中でしたがオリルことの大切さを教わりました。現在私は整体療法を仕事にしていますが、これは江戸期から行なわれていた東洋医学の系譜にあります。現代医学でもわかっていることもいっぱいあるので、そういったこともプラスして、考えて行こうと思っています。
 (身体において「入れる/出す」あるいは「迎える/送る」関係を、ノボル/オリルで捉えると、)体のことでもひっかかることはいっぱいありますね。タトエバ、一杯飲むには血液をたくさん送らなきゃならないのですが、すごく太い血管を使うわけですが、体の隅々にまで血液を送るには、つまりオリルのは細い血管を使って行きわたるわけですね。それは脳でいっぱい血液を使わなきゃならないからですよ。体自身も実はオリルということはたいへんなことなんですね。私もメタボになってきまして、入れるのは簡単だけれど出すのは難しいことを実感しています。
 ところで、死というのは最後に息を吸って終わるようですね。私は祖母さんの死に目に会えなかったのですが、どうも吸うだけで、吐くことができないで終わるようです。だからオリルことは大切で、吸って吐ければ、すなわちノボリ・オリルができればまたずっと生きていけるわけです。

☆ 向 井 吉 人
 さきほど言い忘れたことですが、庄司先生が若い頃、ご自分の実践記録をたびたび三浦つとむさんに送られたという話があります。私も同じで庄司先生に実践記録をばんばん送ったという経緯がありますが、関係が同じだということにとても感激しました。
 さて私が「認識の三段階連関理論」をどう参考にしたかと申しますと、三段階という発想をいろんなところで使えるということを実感しています。教育でいうと、特に漢字の学習ですね。漢字は教科書の文章があって、そこに熟語(言葉)があり、取り出して学習すべき単体としての漢字があるという三段階で、これを逆に辿ると漢字学習は、一取り出しの過程─二熟語を作る―三文章に活かす、という三段階があるのだと考えました。
 教材についても、第一段階に学問があって、次に教科書があって、第三段階にテストがある。一学問-二教科書-三テスト、と考えますと、これはノボル過程ですが、ノボル過程には必ず抜け落ちるものがある。抽象化される段階には必ず抜け落ちるものがあることは、テストなんかやるとよくわかります。テスト化されない内容は必ず抜け落ちていくわけです。
 それから最近考えたことは俗信です。「ご飯粒を残すと目がつぶれる」とか「夜爪を切ると親の死に目にあえない」、「○○すると縁起が悪い」などが思い浮かびます。これらの後半部の言い方、「~目がつぶれる」「~死に目にあえない」「~縁起が悪い」などに注目していくと、そこに段階があることに気づかされます。一身体性(具体性)-二身体と抽象(中間性)-三抽象性、と段階化してみると、「~縁起が悪い」というのは三抽象的な段階であります。真ん中の二が「~死に目にあえない」、そして「~目がつぶれる」は一の具体的な物言いになっています。
 さらに、二年生になると生活科で「お手伝い」の話が出てきますが、お手伝いについてもだいたい三段階あるのです。最初の第一段階は頼まれるお手伝い、第二段階は役割が決まっているお手伝い、第三段階は多少教育的なお手伝いで、どこどこに行ってらっしゃいというようなお手伝い、テレビでもやっている「初めてお使い」ような段階で、親の干渉を超える教育的な段階です。つまり、一頼まれるお手伝い-二役割が決まっているお手伝い-三親の干渉を超えるお手伝い、です。
 こういうふうにいろいろ考えることができます。えー・・・・私去年、大腸がんの手術をしました。ポリープができました。大腸というのは、ジョウホウ結腸とカコウ結腸とオウコウ結腸というのがありまして、これも三段階です。たぶん私のはアナだらけでしょうから、私の理論は「三段階レンコン理論」(笑)ということになります。

☆ 武 田 恭 宗
 私と庄司先生との接点の一つについてお話します。それは道元の『』です。私は25歳ごろから2、3年間泉岳寺というところで座禅を組んでいました。そこで『正法眼蔵』の話を聞いていたのですが、庄司先生も『正法眼蔵』を読んでらっしゃるということで、独身時代、30年くらい前のことでしょうか、先生のお宅で食事をご馳走になるときなど、よくこの経典の話を伺いました。その中で、『正法眼蔵』を下地においた国語教育を構想したらどうかという話がありまして、そのとき以来心に残っている道元の大事な言葉があります。「仏教もし用いるべからずば、飲むべき水、むべきもなし」。先生は、これを引き合いに出して、道元は文字言語すなわち表現についてピシャリと押さえていると説明してくださいました。つまり表現というのは、「飲むべき水」「汲むべき杓」なのだということです。その頃はまったくわからなかったのですが、いま退職を前にして、また今日の記念集会に参加させてもらって、改めてこの道元と庄司先生のセンで国語教育をまとめてみたいと思っています。つまり、子供たちに三段階連関理論を踏まえながら表現を読みとらせていく、読み方教育の構想です。「読解」という言葉は使いたくないですね。「読み方」です。いずれは生涯教育に繋がるような「読み方教育」を仕上げたいと思っているわけです。これが先生への恩返しに繋がるのではないかなと思います。
 ここが私の実際的教育学にも、成城学園の創立者である沢柳政太郎の実際的教育学にも、庄司先生の全面教育学にも繋がっていくのではないかと考えています。最後に一つ、庄司先生からいただいた『正法眼蔵』のなかの言葉があります。「はにあらず」。この意味はですね、学問の広い秀才である必要はない、人をしる眼、人を知る力これを身につけるがよろしいということです。30年前から言われてきたことをここの席に座りまた改めて心に沁みました。

☆ 篠 原 賢 朗
 この御題をいただいたとき、難しいなと思ったんです。なにが難しいのかなと考えると、どう言い表したらいいのかという点です。
全面教育学というのは弁証法の論理学がベースになっていることを今さらながら感じています。庄司先生は授業に行き詰まったらモノを持ち込めとおっしゃいます。これは、まさに具体と抽象をのぼりおりして子供たちは認識を深めていくんだということを教えてくださった言葉なのですが、授業のなかでも意識して使うと、非常に役に立つ理論だな日々実感します。
 また日常生活においてもいかに役立つかということをお話したいと思います。学校という職場では、もう歳も歳ですのでいやな仕事を押し付けられるんです。最近困ったのは「学校評価」の仕事です。アンケート項目を考え、それを子供たちに実施してグラフや表に表現し、コメントを付けるわけです。やりたくないのですが、どうせやらなければならないものなら、自分のためになるようなやり方でしたいと思うわけです。そういういやな仕事をもらうといつでもそう思います。今回は担任してきた234年生がどう認識を変えてきたのか、ということを分析し懇談会にも資料を出しました。つまり正→反→合という進め方で、いやな仕事も少し楽しくやっている。こんなときに弁証法的な生き方というのが役に立つのではないかなあと思います。
 私にとって、「三段階連関理論」のキーワードは「やさしさ(わかりやすさ)」です。これはとどのつまり庄司学の中核にあるものだと思います。庄司先生は難しいことを私にも分かるように、オリルことを通して説明してくださいます。でも質の高さは変えずに説いてくださいます。ここに私が庄司先生の学問に惹かれてきた理由があります。

☆ 登  麻 美
 私にとっての「認識の三段階連関理論」は、いつも自分にとって白黒はっきりしない認識について、私を支えてくれています。境目のないミックスジュースのような自分の気持ちを整理してくれるものだという気がしています。特に教師という仕事をしているので、「教師の三段階」というキーワードで考えてみました。
 私は日頃、第一段階の業務的な教師と、第三段階のプライベート的教師の間で揺れ動いている自分を感じているのですが、私はその中間的な段階における教師像というのを確立していきたいと思っているのです。この第二段階を箸休め的な教師というふうに考えていますが、タテマエばかりでも駄目ホンネばかりでも駄目、何が良くて何が悪いかはそう簡単には決められないぞという段階を自分の中に形成していきたいと思っています。
 第一段階では、「これこれちゃんとやりなさい」と言ってみたり、第三段階にノボッテ、「あなたの気持ち分かるわよ」と受けとめたり、またオリたりヨコバイしたりしながら、ホンネやタテマエからの逃げではなくて、どっしりとした中間的な存在として、子供たちと関わっていきたい。私はまだこの中間的な段階には名前をつけられないのですが、この段階の教師の仕事を探求してゆきたいと思っています。

☆ 石 毛 拓 郎
 私は自分の心も体も、そして名前も三つに分けて考えています。一つは「石毛孝友」という生まれたときに付けられた名前です。儒教的な「孝」という字が嫌いなのですが、これで生業(教師)を生きてきました。これでお給料をもらっています。真ん中が「石毛拓郎」。ちょっと言葉を弄して(詩人として)生きてきました。三つ目が「石毛拓蔵」。10年前から力をいれています。現在は、この三つの自分を使い分けています。
「石毛さんいまなにやっているの?」 「焼き物をやっています」。
「石毛さんいまなにやっているの?」 「詩をかいています」。
「石毛さんいまなにやっているの?」 「先生をやっています」。
これはすばらしい(笑)。
私のキーワードは「綜合文化」です。

☆ 道 岡 義 経
 ぼくは、「認識の三段階連関理論」を授業作りにどう活かしているかという話をします。キーワードは「地図男」(笑)です。いま流行りの地図男ではなくて、地図にこだわりをもって授業に取り組んでいる教師というほどの意味です。今6年生を担任しているので、社会科は歴史を教えています。その際に使っている地図がこれです。「環日本海地図」、通称「逆さ日本地図」と呼ばれているものです。
 歴史学習の導入には、この地図を使ってやります。
 アフリカで誕生した人類のあるグループはロシア・サハリンを通って日本列島に辿り着きました。あるグループは大陸から沖縄・九州を通って辿りついた、昔はこの日本列島と大陸は陸続きだったんだよなどと、言葉だけで概念だけで説明しても子供たちはポカーンとしてしまいます。
しかし、最初に地球儀でアフリカからの人類の移動の経路を列島近くまで辿り、次にこの「逆さに日本地図」を使って説明しますと、子供たちの目は変わってきます。ロシア・サハリン・北海道はこんなに近いのだということを話します。昔は地続きだったんだよ。あるグループはここを通って日本列島にやってきて、あるグループは、南の九州から、あるグループは沖縄の方から日本列島に渡ってきたのだということを話します。
 こういうふうにこの地図を使って説明すると子供たちのイメージが広がって合点してくれます。ところが、普段どこでも見られる日本地図を使って説明すると、九州の方から渡ってきたというのは何とかイメージできるものの、北のロシア・サハリンからの経路はイメージしにくいんですね。
 この「逆さ日本地図」を使った歴史イメージを広げるアイディアは、歴史家の網野善彦さんによるものです。もしぼくが、庄司先生から「認識の三段階連関理論」を教わらなかったら、網野さんのイメージを広げる(表象化)というアイディアを見逃してしまったのではないかと思います。たぶん教科書を使って、言葉・概念だけ、あるいは従来の日本地図にたよって授業をしたのではないかと思います。授業のなかでいかに子供に具体的なイメージを広げていくかという点で地図に注目できるようになったのは、まったく庄司先生の認識論のおかげです。

☆ 徳 永 忠 雄
 中学生というのは、コトワザを教えても想定外の反応をするので、なかなか手ごわくて難しいのですが、柳田社会科の「人の一生」という単元を、小学生(六年生)に教えた場合と中学生に教えた場合とを比べてみます。例えば自分の将来をどういうふうに描くかといいますと、中学生の方が断然面白い。小学生の方は夢のような話になって行きますが、中学生の方が具体的で面白い展開があるんですね。
 さて、私がここで話したいと考えてきたのは、柳田國男のことです。お配りした資料のなかに、私と尾崎で作った世相史研究会のパンフレットをご覧ください。庄司先生の講演の中に、柳田國男との出会いが、先生の学問形成の大きな契機になったという話がありました。会場には他のメンバーも来ていますが、私たち世相史研究会は15年近く、全面研の活動と併行して柳田國男を読んできました。
 パンフレットの「歴史」というタイトルのところに、九州の門司で、95歳のホームレスのようなおじいさんが警察に保護されたという記事を柳田がとり上げたことが書いてあります。実はこのおじいさんが45個の位牌を持っていたという点から柳田はすごい展開をしていくのですが、私が最近読んでいて感じるのは、柳田國男の学問というのは問題解決をめざしていたということなんです。つねに何が問題かを見つけどう対応するか、これをやっていたんだなということなんです。柳田國男という人はいろんな状況いろんな現実のなかで、時間軸をもって何か問題解決のための知恵はないかなと探していたのではないかと思うんです。これを一つの手法として読む者に伝えている、そう感じています。
 柳田國男をご存じない方もいらっしゃると思いますが、私はパンフレットに「百科全書」と書きました。私たちがなにか困ったとき、上手くいかないときに柳田國男の著作に解決のためのヒントがある。これを確信しています。どうかパンフレットを読んでいただけると嬉しいです。

☆ 長 谷 川 孝
 ぼくは大学で一こまだけ編集についての授業をもっているんですが、編集について考えれば考えるほど、「認識の三段階連関理論」で言えば、編集というのは真ん中の段階つまり中間段階に相当し、ここが自分たちの舞台だなとずっと感じてきました。
 ぼくら(新聞記者)は、決して一番上の概念的な段階だけで仕事をしているわけではないし、感覚的な段階だけでやっているわけでもなく、その間を行ったり来たり(ノボリ・オリ)して仕事をしています。最近の新聞記者は、感覚的な段階つまり事実で持って横に這いずり回っている記事が多いなあという気がします。
 学ぶということを考えても、これはどういうふうに形成していくかというプロセスの問題なんです。これはぼくの中では編集作業と二重写しになっています。新聞記者の仕事というのは、何か事件や出来事を書いて世の中に伝えるというふうに思っている方も多いでしょうが、実はこれは聞く仕事なんですね。聞き倒す仕事です。だからこれはまさに学ぶ行為なんです。しかし、今の世の中はほんとうに中間段階、人によっては中景つまり真ん中が飛ぶんですね。原因があって結果があればいい、あるいは計画があって成果が出ればいい。間にどういう努力があったかとか、どういう失敗があったかとかは全部吹っ飛ばされてしまいます。結果さえ出せればいい、というわけです。
 だけど、これおかしいです。真ん中のプロセスを大事にしていかないと、人というのは育たないし、本当のことは伝えられないと思っています。もっとプロセスが豊かであることが評価されなくてはいけない。因果関係という言葉があって、因の次にすぐ果があるように見えますが、実は因と果の間には「縁」があるんです。この縁がすごく大事なことで、これはプロセスのことだと考えています。

☆ 日 下 義 明
 みなさん、こんにちは。日下と申します。私と庄司先生との出会いは、今から30年ほど前、学校の問題で悩んでおったときに、先生宅を訪ねたのが始まりです。そのとき先生は、悩みについては直接答えてはいただけなかったんですが、学問作りをしなさい、そういわれたんです。で、学問作りのために、最初に三浦つとむさんを勉強しなさいといわれたもので、(敬称を略しますが)植垣、後ろに坐っている北島など、一校あたり7,8名集まって1年以上、三浦つとむさんの本を読みました。それ以来、全面研のほうに参加させていただいています。
 学んだことはいくつもあるんですが、とくに私は「死の教育」を学ばせてもらいました。ポイントは二つあります。一つは、死とは何ぞやという問いです。これに応えてみることが大事です。全面研で「~とは?教育法」「~とは?思考法」と呼んでいるものです。私は授業のときに、「死の教育とは?」「友だちとは?」「命とは?」「家族とは?」というふうに、子供たちばかりでなく、参観に来てくださった方々にも訊いています。これで何が分かるかといいますと、その人の認識の仕方、死に対する認識の仕方がわかります。
私は、今年の3月に定年になったのですが、退職してまず始めたのは本の整理でした。7つぐらい本棚があったのですが、これをどんどん整理していきましたら、意外に一つの本棚の二段分ぐらいまで減ってしまいました。残った本は三浦つとむさんの本、庄司先生の本、それから全面研のメンバーが書いた本でした。何を言いたいのかと申しますと、これまでの人生の中で本当に影響を受けた人というのは意外に少ないものだということと、影響を受けたのは全面研の人たちだったなあという感慨です。これを是非伝えておきたいと思いました。
 もう一つ。庄司先生の話にあった「死の教育」の実験です。このなかに「もし蜘蛛の巣に捕えられた蝶を見つけたとき、あなただったらどうしますか」という問いが出てきます。これは、宗教学者のひろさちやさんが、園児の前で問うたものです。この記事を当時、前に坐っておられる長谷川孝さんが毎日新聞の記者だったときに紹介してくださったものです。これを読んだときにほんとに授業でやりたいなあと思い何度も試み、ずっと大事にしている授業です。やるたびに広がり深まるテーマだと思います。
私が死の教育を語るときにはいつも、
① 死の教育とはなんぞや
② 蜘蛛の巣に捕えられた蝶
の、二つの話をさせてもらっています。どうぞみなさんも使えるようでしたら試してみてください。以上は、庄司先生と長谷川孝さんから学んだことです。ありがとうございました。

☆ 花 田 伯 子
 花田です。キーワードは「表と裏」です。この言葉は私の体の両面にぴったりと貼り付いていて「私が生きている」という感じです。
「表と裏」を庄司先生の言葉で言えば、静止した映像の世界とその裏側ということになります。科学や実験の世界を一言で「静止した映像の世界」と言い切っています。私のグニャグニャ頭つまり意識のごった煮状態にとってはこの言い切りが魅力です。
 例えば、庄司先生は、人類における認識の歴史には大別して現実史と空想史の二つがある。この二つは、科学史と宗教史と言い換えることができるとおっしゃっています。私は意識のごった煮状態で聞いているのですけれども、こういう先生のスックスックという言い切りの強さに、あるいは膨大な資料を整理して来られた著作のなかの一言に、私はとても静かな自由な心地がして、いつも前に一歩踏み出せる感じがしています。
 「静止した映像の世界とその裏側」への思いは人間やっていると一生尽きることがないのではないかと思います。私は、こんなふうにしてごった煮状態から認識状態へと一歩踏み出す感覚を体験してきました。

☆ 尾 崎 光 弘
 出会いのときもそうでしたが、庄司先生の話はいつも私に緊張と弛緩をもたらしてくれます。特に弛緩です。先生の話を聞いていると、笑いとともに心のこわばりがほぐれ、ゆったりと自由な気分になれます。そんな気分のときに、たとえば学校は・・・と考えると、そこはいつも緊張を強いるばかりじゃないかと思うことがありました。緊張ばかりでは子どもは自由になれない。そうだ、弛緩教育を実験してみようと思いました。
 そこでこう考えました。ふだんの生活では多くの場合、緊張つまり心のこわばりは何に起因するか。それはまず、自分で思い込んでいる自分の欠点ではないかと考えました。周りからあれこれ指摘されたり比較されたりするなかでいつの間にか「欠点」と思い込んでしまっていることがらにちがいない。そう考えたとき、多くは自分の顔などの身体ではないのかとあたりをつけました。そして自分の顔でイヤだなと思っている部分を思いっきりデフォルメした自画像漫画はどうだろうと思いました。
 当時担任していた2年生が描いてきた作品は大変素晴らしいものでした。そして、それをみんなで鑑賞するときそこには笑いの渦がありました。つまり、自分の「欠点」を笑い飛ばすことができるのは、いささか自分を相対的にみるということです。このとき弛緩、例えば笑いは緊張する自分から自由になるための大きな力だと知りました。わたしの場合は、先生の話から緊張と弛緩という弁証法を学び教育実験をしたということになります。今では、「緊張と弛緩」は世渡り術や人生論のようなものだと思っています。

☆ 小 田 富 英
 (基調報告からの再録)私たちの課題は、庄司先生の「認識の三段階連関理論」をすべての場で使ってみようということであり、これは今日の集会での呼びかけでもあります。
 教員であれば、授業作りの場で必ず役に立つ考え方で、とくに私はこの理論でいうノボリ・オリのための「キッカケことば」を頭のなかに入れておくと、子供たちとの会話も弾むんじゃないかと思います。今日の集会には私の若い仲間に来てもらっていますが、勤務校だった武蔵野第二小学校での話です。
ここでは子供のコミュニケーション能力を育てようという校内研究をやり発表もしました。研究主任としては表面をなぞるような研究ではおもしろくないので、子供たちのコミュニケーション能力を高めるために、庄司先生の「三段階連関理論」をお借りして身近な言葉で自分たちの理論を作ることにしました。子供たちの会話を聞いていますとパッと「ださい」とか「むかつく」とか感覚的な言葉がたくさん聞こえてきます。これらを「キッカケことば」によって第二段階(表象レベル)に持ち上げられないか。さらにはもっと高次な第三段階(概念レベル)に持ち上げられないかと考えたんです。それで、「どうして」「べつの言葉で言えば」「他と比べたら」とか、「思っていることにぴったりした言葉は」「コトワザで言うと」とか、子供たちをノボリ・オリさせるためにのキッカケ言葉を研究しながら、「感じ言葉―思い言葉―考え言葉」の三段階を考案したのです。子供たちの1年生から6年生になるまでに、この三段階をスパイラルのように繰り返しながら、何か感想を求められたら自分の言葉で長く理路整然と話せる子供たちを作ろうと思ったのです。
 これを「三段階連関スパイラル理論」と呼んでみようと思いついたのですが、庄司先生の本を読み直してみたら、「三段階連関理論は螺旋的に発展する」と書いてありました。庄司先生はとっくに分かっていたんだなあと思いました。また柳田國男に「思い言葉」というエッセーがありまして、戦前の教育は漢字に重きをおきすぎた結果、自分の思いにぴったりな言葉つかうことができなくなってしまったのだ述べているんですが、小学生時代は「思い言葉」が豊かになる時期であり、これを育てる手立てを研究したのです。三段階連関理論を頭に入れておくと、授業でも生活でもたいへん役に立ちます。
 三段階連関理論をどう活かすか。もう一つの話は、これを世界認識に活かしましょうという提案です。この世の中・時代を分析するひとつの手法あるいは自分で考える武器にできないかと考えています。これをみなさんと一緒にできないかと思っています。

☆ 植 垣 一 彦
 私の「認識の三段階連関理論」の受け止めのキーワードは「授業構成の三段階」です。私は、庄司先生の「認識の三段階連関理論」をもとに、授業構成の三段階を、「感覚的授業─表象的授業─概念的授業」と置き換えて使ってきました。私たちは指導する立場ですが、指導の裏には子どもの認識発展の問題があります。授業を作っていくときには、この三つの段階をいつも意識しながらやっていくといいと思います。具体的な方法を道岡さんが話してくれましたが、モノを持ち込むというのはまさに「感覚的授業(指導)」です。実物を持ち込んだり、感覚レベルで何かをとらえたりすることです。第二段階は絵や図、教材教具など表象を使うということ、これが「表象的授業(指導)」です。さらに言葉や文字の概念でまとめる「概念的授業(指導)」のレベルがあります。この「三段階」の「のぼり・おり・よこばい」
の繰り返しで子どもの認識を深めるのです。
 「授業構成の三段階」を持つと、自分の授業作りがとても分かりやすくなるし、他人の授業が見えやすくなります。他の先生の授業参観などで、なんか概念的指導ばっかりだなと思ったりもできるし、絵や図やグラフがあればいいのになあと思ったりできるわけです。キーワードを書いたこのカードは是非若い人にプレゼントしたいと思います。きょうはたくさんの若い先生たちが尽力してくださってほんとうに感謝しています。


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ミニフォーラム第二部
 
模擬授業 コトワザ授業の実際

<配役>   先生(●印)・・・植垣 一彦  生徒たち・・・・集会参加者

 
前口上

 ミニフォーラムで当ててもらえなかったので。(笑)・・・、ここで発言させてもらいます。庄司先生との出会いの私のキーワードは「コトワザ教育の継承」です。「展開のある授業の試み」というのが副題です。どういう事かと言いますと、先ほど登さんの初任当時の話に泣けてしょうがなかったんですが、日下さんの話にもあったように、私たちが庄司先生のお宅に伺ったときは、私は教師を辞めたいと思っていた時期でした。でも、初めてお目にかかったにもかかわらず、日本に庄司先生のような人がいるということが大きな救いでした。こういう先生がいるのならもうちょっと教師を続けてみようと思いました。そして、コトワザ教育を継承しようと決心したわけです。
 庄司先生のコトワザ教育関係の書物には、「展開のある授業」とか「立ち回り」はあまり必要でないと書いてあるんですね。そこを逆に掘り下げてみたいと思ったんです。つまり「ぼくが展開のある授業を作るぞ」、そう思ったのです。もうひとつ、「立ち回り」もしたい。「あまり必要でない」と書いてあるんですけど、「あまり」ということは「少しは必要」ということですから、「そこはぼくが切り拓くぞ」と思ったわけです。おかげでずっと教師を続けることができたと思っています。
 つぎに、私の「認識の三段階連関理論」の受け止めのキーワードは「授業構成の三段階」です。私は、庄司先生の「認識の三段階連関理論」をもとに、授業構成の三段階を、「感覚的授業─表象的授業─概念的授業」と置き換えて使ってきました。私たちは指導する立場ですが、指導の裏には子どもの認識発展の問題があります。授業を作っていくときには、この三つの段階をいつも意識しながらやっていくといいと思います。具体的な方法を道岡さんが話してくれましたが、モノを持ち込むというのはまさに「感覚的授業(指導)」です。実物を持ち込んだり、感覚レベルで何かをとらえたりすることです。第二段階は絵や図、教材教具など表象を使うということ、これが「表象的授業(指導)」です。さらに言葉や文字の概念でまとめる「概念的授業(指導)」のレベルがあります。この「三段階」の「のぼり・おり・よこばい」
の繰り返しで子どもの認識を深めるのです。
 「授業構成の三段階」を持つと、自分の授業作りがとても分かりやすくなるし、他人の授業が見えやすくなります。他の先生の授業参観などで、なんか概念的指導ばっかりだなと思ったりもできるし、絵や図やグラフがあればいいのになあと思ったりできるわけです。キーワードを書いたこのカードは是非若い人にプレゼントしたいと思います。きょうはたくさんの若い先生たちが尽力してくださってほんとうに感謝しています。


ライブ・コトワザ授業の実際

●今日は30分の短縮授業なので、・・・30分もない? 先生たちはお昼から組合の出張があるので。(笑)、15分でやりますね。道岡くん、お席に着いてる?

道岡:ハーイ。

●最初にみなさんにこういう紙(短冊形のワークシート)を配りますので、一人一枚もらってください。(配る)授業の途中でこの紙を何に使うのか、ピンと来ますから、ピンと来た人は鉛筆を走らせていいと思います。
えー、先生はね、こういうコトワザを用意しています。ちょっと見てください。一つのコトワザの上と下をちょん切ってカードにしたものです。まず上のほうだけを黒板に貼ってみます。 「ちょうちんでナントカする」ということわざです。(とカードを貼る)

          ちょうちんで

●こういうのもあります。(とカードを貼る)

           こんにゃくで

●一緒に読んでごらん。ちょっと静か過ぎるよ。(笑)
ハイ一緒に、・・どうぞ。(とカードを貼る)

みんな:こんにゃくで。

           
●ハイ、つぎは?(とカードを貼る)

          雲をつかんで

みんな:雲をつかんで。

●ねー、こういうものもあるんです。(とカードを貼る)

          くもの巣で

●ハイ、一緒に。

みんな:くもの巣で。

●それからこういうのも用意したよ。(とカードを貼る)

          きねで
 
●ハイ、どうぞ。

みんな:きねで。

●最後は、これです。(とカードを貼る)

           ザルで

●ハイ、どうぞ。

みんな:ざるで。

●で、この下にね、ほんとうはみんなに考えて欲しいんだけど、今日は短縮授業なので。(笑)、手早くやりますよ。下にくるやつをこれから貼りますから、どれとどれが合体するか、ちょっと考えておいてよ。わかったらすぐに手を挙げて言うんだ

           鼻をかむ

           すきやきをつくる

           石をつる

           もちをつく

           石垣を築く

           頭をそる

           水をくむ


だれか:ハイ!ハイ!(笑) 「きね」ってなに?

●「きね」っていうのは、おもちをつくときに使うもの。きねばあさんじゃないよ。こうやってつくやつが「きね」。「きね」? あんまりツッコミ入れないのよ。。(笑) 長谷川くん、今日は理屈っぽいこと言っちゃだめよ。短縮授業だからね。(笑)。さあ、どれがどれに合体するだろうね。いきますよ。道岡君、もうわかったの。

道岡くん:こんにゃくで、すき焼きを作る!

●こんにゃくで、すき焼き。拓郎くんもそう思うの?

拓郎くん:いや、それは当たり前すぎる。

●ほほう、当たり前すぎるか。じゃ、ちょっとここに置いておこうね。拓郎くんみたいに当たり前すぎるなどと思ったときは、すぐに手を挙げるんだよ。ハイッ!って、元気よく言わなきゃだめよ。・・・・どれか一つでもわかった人はいますか。将来、看護師の免許をとったり、助産師の免許とったり、介護師の免許とったりするかもしれない、コマツダちゃん、どう?(笑)

コマツダちゃん:うーんと、ザルで水をくむ!

●ザルで、水をくむか。いやー、いいね。拍手(拍手)。これ良いみたいね。さあ、ほかにどう?後ろの方も遠慮しないでね。ほー、将来、小田先生のお弟子さんになるかもしれない若い人。(笑) どう?(若い人・・・。)

道岡くん:ハイ! くもの巣で鼻をかむ。

● くもの巣で、鼻をかむ。「鼻をかむ」がくるか。ほほー。

拓郎くん:ハイ!(●はい、拓郎ちゃん)こんにゃくで石垣を築く。

● こんにゃくで、石垣を築く。こういくわけだね。ほかにはどう?

尾崎くん:ハイ! 先生、変なコトワザがあるよ。それ変だよ。

●どう変なの?

尾崎くん:ザルで水をくむっておかしいよ。水こぼれちゃうじゃないか。
そんなことしてたら馬鹿じゃないの、それ(笑)。 先生、そう思わない?

●思わない、思わない。(笑)

拓郎くん:先生、それは想像力の問題だと思います。(笑)

●想像力の問題だねー。想像力のことを、・・・(騒々しい!)ファンタジーというんだよ。実はきょうのコトワザは、先生、「ファンタジーコトワザ」と呼びたいなあ。

尾崎くん:ファンタジーってなに?

●だから、馬鹿げたことだよ。(笑)

尾崎くん:アホなんじゃない。

●言ってごらん。ファンタジー。

尾崎くん:ハンタジー!

●ちがう、ちがう。ファンタジー。

尾崎くん:フ・ア・ンタジー。(笑)

●そう、そう。(笑) サッ、ほかにどうかなあ、ほかの人? もしかしたら30年後に「ふなやま」と苗字が変わるミヨちゃんいる? どこかわかるやつある?

ミヨちゃん:・・・・。

● これはどう? 賛成?(ミヨちゃん、うなずく)。これは?(うなずく)。じゃあ、ほかは自分で考えてみよう。

ミヨちゃん:きねで、頭をそる。

● あ、ははははー。さっき・・・・。

尾崎くん:おかしいよ、そんなことできるわけないじゃん。(笑)

●尾崎くんの言った・・・

尾崎くん:剃れないよ。
でも、武田くんとぼくとかはもう剃ってるけど。(爆笑)

●尾崎くんは、「できないよ、そんなの」と考えたわけね。そう、そう。ふつう頭を剃るときはバリカンやカミソリで剃るね。ほかにどうかな?

武田くん:はい。雲をつかんで、すき焼きを作る。
だれか:どうやって作るのよ。そんなのできないじゃん(ザワザワする)。
武田くん:ファンタジーだから、いいじゃん。

●はいはいはい。ほかにどう? (尾崎くん、なんか騒いでいる)将来、言葉遊びの大家になるかもしれない向井くん。

向井くん:はい。「くも」には二つあるんですけど、くもの巣の糸は細いから、「くもの巣で、石をつる」じゃないの。

●は、は、は、は。さっきの尾崎くんのファンタジーだね。(フアンタジーだよ!)

向井くん:雲はファンタジーとして白いわけだから、「鼻をかむ」じゃないすか。(白い紙で鼻をかむでしょ。)

●じゃ、これ道岡君の「クモの巣で、鼻をかむ」はちがう?おかしいか。

向井くん:そう、ちがう。
「ちょうちんで、すき焼き」はいいかもしれない。(笑)。

尾崎くん:あの、あの、すき焼きはサー・・・。

●今日は短縮授業。(笑)。尾崎くん、少しうるさいからトイレ行っといで。(大爆笑) はい、小田くん。(全体:ざわついている。尾崎くん騒いでいる)

小田くん:科学的なこと言います。ザルに一億年も水をやっているとコケが生えて、水がくめるようになるんじゃないですか。

●小田くん、あなた今2年生だよ。(笑) まだ非科学の世界にどっぷり
つかっている年代よ。それは、あとで反論合戦やりましょう。こういう授業では反論合戦ができるんです。いいこと言ってくれた。あとでやろう。残りは、ちょうちんで、・・・どうしようか。

ミヨちゃん:もちをつく。

●なるほど。ってことは、これ(「すきやきをつくる」)は要ら・・・なかったんだね。

拓郎くん:先生、ぜんぜん整合性がないんだけれど・・・・。(笑)

●整合性!? アッハハハ、拓郎くんは何年生ですか。(笑) 
(サバ読んでるんだよ。60歳だよ) 
いけないねー、いつまで教師でいるのかな。(笑) 
さあ、ちょうちんで…、一緒に読んでごらん。

みんな :ちょうちんで もちをつく。
     :こんにゃくで 石垣を築く。
     :雲をつかんで 鼻をかむ。
     :クモの巣で 石をつる。
     :きねで 頭をそる。
     :ザルで 水をくむ

●どのコトワザも─?・・・(篠原くん小さい声で「できっこない」の発言)・・・・大きい声で!

だれか:(どのことわざも)いいですね。(爆笑)

● トイレから帰ってきた尾崎くん、静かになったのでここで認めてあげよう。これは尾崎くんも気付いていたように、みんな「できない」という意味で共通していますね。
──ちょっと現実にもどって。(笑)、波多野さん。これらのコトワザは、「できっこない」という裏の意味ですが、これが抽象化・概念化の勘所ですね。子どもたちと「表の意味」や「裏の意味」を毎日やっているとすぐに出てきます。「先生、みーんな、できるわけがないってことだよ」と。
さあ、裏の意味が分かったところで、つぎにこのコトワザはどれも同じパターンでできているんだけど、そのパターンを見つけられた人?

だれか:~で!

●「で」だねー。いいこと気付いた!

・ ちょうちんで
・ こんにゃくで
・ 雲をつかんで

さあ、そろそろプリントを用意して。さっき先生配ったでしょう(笑)。

・ クモの巣で
・ きねで
・ ザルで

向井くん:ハイ。もうひとつあります!~を。

●「を」。それもだいじだねー。「もちをつく」「石垣を築く」「鼻をかむ」・・・。ちょっと2学期の国語5にしてあげるからね。(笑)。「石をつる」「頭をそる」「水をくむ」。これも見事な一つのパターンになってるね。ってことは、ご先祖様たちは「~で~を~する」という型を使って、「できるわけないよ」というコトワザを生活の中から作っていったんだね。ということは、きょうは短縮授業だから、みんなも2分くらいでさっきの紙にサッサッと書いて作ってみますよ。いい。まずね、短冊の真ん中あたりに「で」と書いといたほうが速いよ。「を」と書いておくのもいいね。あとは空いている所に入れればいいんだから。
(生徒たち、短冊に創作コトワザを書いている)
 さあ、どういうのが出てくるかなあ。

小田くん:先生、頭が固いんで、いいですか、先に言っても。
(●はい、いいよ) 
全面研で 世界を変える!(ざわつく)。

●いやいや、できるわけないっていうのを作りましょうと言っているのに!(爆笑) そんなこと言っていいのかな?「全面研で世界を変える」というのは、たしかに、野望ではあるけど…。「できるわけないよ、そんなのー」というやつを作るんだよ、いい?みん取り組んでいる間、お友だちが作った作品を見せましょう。
 4年生が作ったものです。

ネコの背中で 運動会をする(拍手)

葉っぱで 太平洋を渡る
  なんかできるわけないけども・・・、なんかファンタジーだねー。(笑)。(フアンタジーだよ)さあつぎいくよ。

屁で 空を飛ぶ(笑 けらけら、ケラケラ)

(●これもいいねー。屁で空を飛ぶ。)

ハゲの光で クッキーを焼く。(笑)

●みんな、ご先祖様からもらったパターンだよ。どんどんできていく。みんなも作ってごらん。先生がこうやって友だちの作品を見せている間に作るんだよ。ほら、手が動いてないよ。(笑) つぎは、

電信柱で 竹馬をする
(●うわああああ、怖い!)

目玉で ケンダマをする(笑)

 30年後詩集をたくさん出すことになる拓郎ちゃん、この作品は韻を含んでいるよね。

拓郎くん:それ、いいですね。

向井くん:因(韻)果応報だ!。(笑)

● あっ、これもいいね。先生大好き。

縄跳びを輪にして 未来をのぞく(いいね)

 この作品は「で」がないね。型を学んで型を出る。いいですね。できた人いますか? おう、できたできた。お名前もかいているね。尾崎くんのやつ。ひひひ。読んでみますよ。

水中で タバコを吸う。(笑)

コメントが「もう吸う所がなくこまっちゃう」。2年生なのに、煙草をすう!(大爆笑)。おう、道岡くんもできたね。いいねえ。

マッチで ヤキモチを焼く

すばらしい!はい、拍手―ッ。(拍手 やったーほめられたー)

向井くん:
コンニャクで 頭をなでる

●コメントは「腹がたつとき」。いいよ。ミヨちゃんはできた? おーッ。はーい。じゃ、いくよ。

スプーンで ミミズを掘る

 「がんばればできる」とコメントが書いてある。「できっこない」ということは、裏を返せば、「やってみたらおもしろそう」という発見だね。不可能へのチャレンジ。あなた、これは弁証法です。すばらしい!もう2年生で弁証法を!。(笑)。というわけで、あと2、3人。マミちゃん、どう? わたしを泣かしちゃって…。

マミちゃん:うふッ。

拓郎くん:先生、時間です(爆笑)。

●ときどき、こういう小憎らしい子が教室にいるけれども、やっぱり子どもってかわいい。オッ、最後に向井くんの作品。赤ペンで書かないようにね。(笑)。先生の赤ペン使っちゃだめよ。「減量で・・・」これは2年生をもう飛び級です!

減量で メタボになる

 いやいや、もう弁証法。もう一つ、向井くんの。

てんぷら油で 湯浴みする

 「湯浴み」ってなーに?向井くん。先生、意味がわかんない。(笑)。

向井くん:もう、弱み(湯浴み)を握られている。(笑)。

● あ、時間過ぎたので、終わりましょう。今日は帰りの会なしです。さよならー。(拍手・・・・)

(このあとみなさんで、庄司先生の大好きな写真を撮りましょうの声)

●(突然)ああ、ちょっと待って! まだ授業終わってなかった。ごめんなさいねえ。20年後に「認識の三段階連関理論」を発明するかもしれない庄司宗顕(むねあき)くん、作品を見るのは初めてだねー。(笑)。庄司くん、作品見せてごらん。

だるまで 坂を下りる

 はーい、拍手―ッ。終わりまーす。
(拍手 模擬授業終了)

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