認識の三段階連関理論について 


* 詳しくは庄司和晃著『認識の三段階連関理論』(1985 同増補版1994 季節社)をごらん下さい。
Aは、同書のはしがきから抜粋したもの(傍点は太字にした)。
Bは、同書「増補版あとがき」を再録しました。ともに分かりやすく簡潔な紹介ですが、Bで言及している「庄司式認識論体系要目」は、たんに<知識の作り方>にとどまらず、<精神の作り方>までを含んだ広義の認識論の大小の柱立てであることに注目したい。

* このページでは、認識の三段階連関理論についての記述を、主に先生の著作から拾っていきます。この理論を線ではなく幅でもって理解したいと考えるからです。

* なお、読みやすさを考慮して段落ごとに一行ずつ空けることにしました。
 


 A. 三段階連関理論は、認識発展の論理についての理論です。この理論は簡単にいうと、認識のありかたを、感覚的素朴的段階・表象的過渡的段階・概念的本格的段階、という三つの段階としてとらえ、この三つの段階間を、のぼったりおりたり、あるいは横ばいしたり、それになお過渡的段階で完結したりというように、ダイナミックな運動をしつつ、全体としてはのぼりの道をたどって私たちの認識は発展する、ということを明らかにしたものです。この理論の特徴は、過渡的な表象的認識を一つの段階として理論化したこと、認識の発展を三つの段階の間の転位移行=のぼりおりの運動としてとらえたこと、にあります。それでこの理論を別名「のぼりおり認識理論」ともいいます。

 三段階連関理論は、わたしが仮説実験授業(「科学の論理」の教育)とコトワザ教育(「科学以前の論理」の教育)の研究の途上において、この二つ(仮説実験授業とコトワザ)の論理構造を分析しているうちに着想し、一般的な認識理論として創造したものです。



 B. このたび、わたしの考える認識論をさらに調えてみるべく、その大筋のところを一歩進めてみました。それが第Ⅳ部の「庄司式認識論体系要目」です。文字どおりに、「要目」のみの体系的な展開というわけですが、大事なことがらについてはすべて、命題の形で短句的に言い切ってあります。わたしの到達した現在地点の一々を示しているわけです。

 これにわざわざ「庄司式」という名を冠したのは、従来の認識論はあまりにせまくかたまり過ぎており、それでは人間の頭脳活動その成果とを十全に解明しえないという観点から、その幅を思い切ってぐっとひろげて、言わば広義の認識論として構築してみたからであります。
 今までの、いわゆる伝統的な認識論というのはもともと、知識についての理論という意味です。その主題とするところは、ごく簡単に言いますと、<知識の作り方>という点に存します。

 これに対してわたしは、ここの問題をもっと柔軟な姿勢で手玉にとってみたいという趣意から、一段上位に位する<精神の作り方>というのを主題にすえ直してみようと思っているわけです。

 それと言いますのは、<知識の作り方>という一事には、当然のことながら、感情も意志もからんでいます。そういうのを無視するわけにはいきません。ですから、他面においては感情の作り方とか意志の作り方ということも、これまた重要な課題として設定してみることが可能です。また、知識と意志との結合という問題もあります。なお、真理論とか誤謬論とか、すなわち正しい知識を獲得する諸問題には、その人のものの見方考え方の「観」のことがらも抜きがたくからみついています。そのほかにも、無意識の問題とか神秘的なことがらとか、種々の面が存します。

 そうした面々をも考慮して大きく、<精神の作り方>ということでつかまえてみようとしているわけです。言いかえますと、精神作用の全体をおさえるべく、認識論の主題として<精神の作り方>というポイントを浮上させてみたというしだいです。

 こういう主題ですので、わたしの認識論には、存在論や論理学の一部もはいりこんでいます。これも言うなれば、心とか魂とか、あるいは知情意とか念想観とか、総じて人間の頭脳活動の全貌をヨリよく解明していきたいという願いからです。

 ところで、わたしたちの行動・表現・実践の裏には、必ずそれ相応の下心がひそんでおり、それが自分自身を動かしています。たとえば、大望とか大志とか、ときには計略とか悪巧みとか、もしくは予想とか仮説とか、の類です。

 こういう目的的な動きをするのが、いわゆる普通の人間の構造であり、そしてそのありかたです。ここのところを昔の人は、「心は身の主(あるじ)」ともとらえておりました。諺によるつかみとりです。この諺をもじると、「行動のかげに心あり」「表現のかげに精神あり」「実践のかげに」等の新作の諺ができてまいります。それほどの意味をこの「心は身の主」は持っているのです。なかなか示唆的な諺といえます。

 ですから、わたしたちはこういうありかたをまず意識し、そして自分の頭脳(精神)を自身で統御し、コントロールしていく必要があります。

 何といっても意識することが大切です。意識は大自然からわたしたちに付与された宝物といってよいでしょう。この宝物ともいうべき意識をそれこそ自覚的に行使しつつ、自分の生き方や学問作りに生かし切っていきたいものです。

 広義の認識論を学ぶ意味あいもまさにそこにあります。(一九八九年三月十三日)



 
出典:庄司和晃『三段階連関理論』(成城学園初等学校 1974) 
 


 三段階連関理論を意識的に適用して発展論的に解明した主なものには、

      ①仮説実験授業の論理構造、

      ②「基礎」論、

      ③「予想」論、

      ④「仮説」論、

      ⑤「討論」論、

      ⑥「実験」論、

      ⑦「変革」論、

      ⑧「科学的思考」論、

      ⑨「自然支配」論、

      ⑩「指導案」論、

      ⑪「板書」論、

      ⑫「論理」論、

      ⑬「コトワザ以前」論、

      ⑭「コトワザ」論、

      ⑮「イデオロギー」論、

      ⑯「論理駆使」論、

      ⑰「法則」論、

      ⑱「多様」論、

      ⑲「素朴」論、

      ⑳文章上の「交流」論、

      ㉑「思想」形成論、

      ㉒「予想実験」論、

      ㉓「概念習得」論、

      ㉔「科学書」論、

      ㉕「感想」論、

      ㉖「教育実験」論、

      ㉗「大衆化」論、

      ㉘「大衆の思考」論、等々があります。

これらは拙著でいいますと、①~⑪までは、『仮説実験授業の論理構造』(1968年)に、
⑫~⑲までは『コトワザの論理と認識理論』(1970年)に、
⑳~㉕までは『主体的科学観の形成』(1971年)に、
㉖は『仮説実験授業と支配理論』(1972年)に、㉗と㉘は『うそから出たまこと』(1973年)に、
それぞれ収めてあります。
(「まえがき」より抜粋。一部編集)


 改革や改造の実践ないしは「学」づくりの仕事に当たっては、理論の研究は不可欠であります。否、理論があってこそ根本的な改革も価値ある改造もありうるといってよいでしょう。経験主義を脱せしめるからであります。見通しや方向をもたらすからであります。むろんのこと、理論を実践においてきたえていくという側面の重要さを忘れてはなりません。経験主義的ないきかたも一面のよさはあります。手持ちの理論や有効な他の理論がないときには、一歩でてみるという経験主義でいくよりほかにはないからです。しかし、そこにいつまでもよりかかっていたのでは、本質を見出しての飛躍的な前進を望むことができません。

それでは一体、理論をどのように役だてればよいのか、また理論というものをいかにして創りあげればよいのか、あるいは自身の経験を反省的にとらえかえすにはどうすればよいのか、その際の急所はいずこにあるのか、等々、これらの解決に対して本書は一つの有益な示唆をもたらすであろうと確信しております。三段階連関理論は、他面からいいますと、内的な発展に関する過程的構造を明らかにするための方法論でもあるからです。すなわち、抽象化具体化というノボリオリをまっとうに把握しようとするものだからです。

 もとより、三段階連関理論は十二分に仕上げられた理論ではありません。規範や実践についての理論の建設もその緒についたばかりです。しかし、途中形態の理論は、ある意味において、かえって役立つともいえるでしょう。たたけばほこりがでるし、そちこちに不分明なところもあって自然裡に絶対化を阻止してくれるであろうからであります。つまり、いかにもの、おっとりとなりすましたものでなく、こちらの手のうちや楽屋裏があけすけにでているからであります。(「あとがき」より抜粋)


トップページに戻る

inserted by FC2 system