庄司先生の論文やエッセーを読んでいると、数々の名言に虚を衝かれたり、鋭く突き刺さったり、癒されたり、励まされたりと、心がさまざまに満たされる体験がやってきます。 分類や整理は後にして、とにかく幅広くさまざまな名言を採集していきたいと思います。 だいたい集めたなあ、と思った頃にあらわれるのは編集者の庄司和晃像でしかないのは是非もありませんが、どうかご寛恕いただきたい。 願わくば、個々に名言集が作られ、いくつもの「庄司和晃」があらわれんことを。 ※名言はそれを含む一節とともに抜粋し、太い文字で、緑色で強調しました。(また太字に下線の箇所は原文で傍点のついた箇所です。) |
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名言と文脈、および出典 | 採集メモ |
(相関の悪業はたち切らねばならぬ) 文部省は親切しすぎる。現場人は非主体的でありエライさんに頼りすぎる。両者は相関的である。この相関はたち切らねばならぬ。『要領』などはいらぬ、教育の内容と方法はおれたちでやる、教科名をもそれぞれに作りだす、そういった気風と実力とを高めつつ身につけていくことだ。 (教師養成においても然り。) 『要領』の理解と運営能力を持つといったような地点から大きくぬけでること。採用試験にしてからが、こまごまとした穴うめ式のものから。新「教科名」案を作成してみよとか、「教科内容」自主案を作ってみよとか、かようなばかでかい問題提示で腕をふるわせるところまでいくのでなければ、どうにもならぬ。 (「変わっていない特殊的知識主義」1977.08) |
・大きなタガをはめた中で「自由」に創意工夫させる、こういう子どもの育て方は現在も深く浸透中です。教員養成もまたしかり。大きなタガがこわれてしまった現在においてこそ、「大元から作りあげる」という方法は有効な提言ではないでしょうか。教科名を考えさせるなど、似たような企画は世間に溢れているのに、教員採用試験や研修でこんな課題が出たという話は聞こえてきません。 (2013/05/15) |
(教育の本質と学力) 教育の本質はこの世をどう渡りぬいていったらよいのかの人間の生き方を身につけさせるところにある。これを支えているのが、生活力と学力である。生活力とは日常的諸問題の処理能力であり、学力とは学習する能力である。むろんのこと、両者は相互にかかわりあう。ところで、学習の本質は何なのか。いうなれば、現実から知識をくみあげることだ。別言すると、真理を手にするべく現実から学びとる力だと規定することができる。 (教育の過程的構造) はじめは「一時預かり」の段階である。到底モノになっているとはいえぬ段階である。いわば一時的に預かっているような段階である。住みつく以前のありかただ。単にあることがらを覚えた・知ったという状態であり、般若心経をそらんじたり掛け算九々を丸暗記したばかりのような状態である。その意味や効能をつかみえていない段階である。しかしここは、いつか芽がでる柿の種であるからとくに大切にしなくてはならない。これが学力第一段階のありかたである。現実によってきたえられるべき種子の宿った段階といってもよいであろう。教育する側からいえば種まき段階だともいえる。どのような種をまくか。それは基礎学力のことに直接関係してくるであろう。 次は「効能づかみ」の段階である。そのものの内意を理解し合点していく段階である。たとえば、力の原理を適用して問題を解きつつナルホドコノ原理ハスバラシイモンダワイとその有効性なりありがたみなりをにぎりしめたり、あるいはことわざの論理を現実の中につぎつぎに発見したりする段階である。すなわちある程度自分のものになった段階だといっていい。つまりは、おおよそのところ・大体のところを身につけた状態、これが第二段階の学力である。過渡のありかたである。 最後は「すっかりモノになった」段階である。対象の諸条件を考慮しながら自在に使いこなしうる段階である。いわば無意識的に駆使しうる段階である。いいかえると適用のじゅうぶんなる可能度を持った状態である。たとえば弁証法の諸法則を指針としながら現実の問題を処理し、新たな知識をすくいとっていけるようになった段階である。これが第三段階のありかたを示す学力せある。 |
・学力とは学習する能力である。こういうことはわかっているつもりでした。しかし、ここで意外な感にうたれたのは、学力は何か量的に蓄積された知識であるように感じてしまう、この感覚です。 ・学力を方法的なありかたと考えるところがポイントでしょう。それは教育の本質を渡世法の体得ととらえる庄司学の根底からの必然です。 ・また教育の過程的構造を、「一時預かり」ー「効能づかみ」ー「すっかりモノになった」と三つの段階にとらえることにも繋がっています。 ・この過程は、いわゆる上達論とのちがいを受けとめる寛容性を擁している考え方だと思います。というのは「学校教育という仕事」のもつ特殊性、すなわち子どもの学びは全員第三段階に到達しなければならないものではない、と考えるからです。 ・ここが全面教育学の魅力であり強味なのではないでしょうか。「教えたんだから必ず使ってみろ、などと一律的で性急ないきかたは極めて危険である」ことを熟知しているからです。教育過程といわゆる上達過程は似ているけれど異なるのです。 |
(科学的な思考訓練の諸原則) それでは科学的な思考の訓練において、こちら自身がどういう点に力を注いでいるかの諸原則を列記して、結んでみることにしたい。 (「理科──実験と思考の指導の諸原則」1975.06) |
・つい「クソ積極主義」や「クソ理屈主義」になってしまう教師の日常意識。 このせまい考え方を広げたい。 |
(低学年理科の存廃をめぐって)
科学教育の目的は、実践的に規定すれば、自然支配力を増大していくことにある。基本的な法則を学びとることも、技術力をふやすことも、経験を豊富にすることも、とどのつまりはそこへ直結する。このことからいうと、低学年で何をなしうるか・どれだけのものをなしうるか、その可能性なり限界性なりを見つけ出していくことはきわめて重要である。 |
・科学的教育(自然支配力の獲得)の三段階を位置づけてみれば、 <③法則─②技術─①経験> ということになるだろうか。 ・このなかで小学生の理科的活動を位置づけるという考え方に蒙を啓かれます。 |
「助け合い」ということには大別して二つある。 一つは<非敵対的な助け合い>である。 君は水をくめ・おれは薪を拾おう、といった形がそうである。また、君は薪をとるのは不得手のようだ・おれが手伝ってやろう、という形にしてもそうである。係り分担方式、それに農漁村にみられるユイとかモヤイという協同労働などもそうだ。いわゆるの相互扶助的なありかたである。その性格としては、表だった対立がみられないということで、直接的な助け合いである、といいうる。 もう一つは<敵対的な助け合い>である。 討論・論議・論判といったものがそうだ。対立的で間接的な助け合いである。まわり道的な性格が存するといってもよい。 直接的なものにせよ間接的なものであれ、 助け合うことの本質は、相互のかかわりあいによる発展という点にある。 (「助け合い学習における教育力」1974.02) |
・助け合いが調和的(非敵対的)のものにかたよってイメージしがちなのはどうしてだろうか。ふだんの暮らしやテレビや映画の中では敵対的な助け合いがいくらでも見られるのに。 ・助け合うことの本質が≪相互のかかわりあいによる発展≫にあるとすれば、これは故郷と異郷の関係においても十分に考慮すべき考え方だ。 |
(子どものわかり方) 仮説実験授業のひみつの勘所ともいうべきものは、かくのごときのドラマになるオトシアナの「問題」を創出しえた点にある。それが一つの強大なきっかけとなって、子どもの自然観をして科学的にし、そして思想次元への進展を約束するのである。科学の学習というのはそうであったのかという深い思いをもたらしていくからである。したがって、「わかる教材」になりうるかどうかのかなめは、まずもってオトシアナに値する問題を生みだすことができるか否かにあるといってよいであろう。つまりは科学のすばらしさを感得させるかどうかだ。そして、そのような教材(授業書)には子どものわかり方がすくいとられていく。それのみではない。わかり方自体が形成されてもいく。育っていくのだ。 最近、『進化』の授業を仮説実験授業でないやりかたで試みたことがある。こちらの興味も手伝ってことさらに各種の資料を準備し、そして問答をなかだちとしながら解説していくという進め方をしてみたのだ。普通の一斉授業である。そうしたらある時、ひとりの女の子に「先生って進化のことよく知ってるわね」といわれたのだ。この一言を耳にしたときびくんとし、少しく複雑な気持になった。というのは、仮説実験授業の最中にそれに類したことをいわれたことがなかったからだ。その表明するところといえばほとんどが自立的なことがらであった。それが常態になっていたから、この一言に一瞬びくついたわけである。 そしてあらためて合点するところがあった。なるほど、そうなのだ、こちらがしゃべりすぎると、子どものわかり方の筋が主体からそれてしまうのだ。自分の足で歩く・自分で考えることに自信をつけていく、といった主体的なわかり方のラインとは逆向きになってしまうのだ。この一点からいっても授業というのはこわいものである。育つ方向をかえてしまう力を持っているからだ。(「仮説実験授業と子どものわかり方」1973.11) |
・子どもの常識的自然観を変えてしまうようなオトシアナの「問題」をどう作るか、ここが問題なのだ。ただ何の訓練もなく可能だとは思われない仕事だからです。それは一つに子どもの感じ方や考え方に通じていること、二つに対象となる分野の魅力を反省できること。 ・だからこそ、教師には自由な研修時間が保障されなければならないのです。 ・授業でしゃべり過ぎてしまうことが子どもの自立的なわかり方の方向性を変えてしまう──残念ながら私はこれに自覚的ではなかった。(2013.4.10) |
(自覚教育) 思考力の育成という場合に、そのほとんどの実践的なありかたは、体験主義的である。どう体験的に積み上げていくかにえらく心をくだいているというのが実状である。 科学的思考力の場合でも例外ではない。子どもたちに思考の何たるかを体験的につかみとらせていくことはきわめて重要なことである。 が、はたして直接的な体験教育のみで十全であろうか。子どもたちの思考観・科学的思考観を豊かにし、そこに主体的な論理を貫かせるためには、体験教育と同時に、あるいは体験教育を踏まえての自覚教育が一方において必要であるというのがわたしの考えである。 自覚教育の内容としては、科学的思考とは何か、この思考と反対の思考は何か、考えることはすばらしいことか、考えることは楽しいことか等を話題としてじかに子どもたちにぶつけてみることである。そして思考の何たるかを自覚させていくことである。 (「『仮説実験授業』と思考力の育成」 1971.5) |
・学力を育成したいというとき、ひたすらドリルを課すだけの育成論に反省を迫る提言です。「自覚教育」という言葉にも注目したい。 (2013.4.9) |
あからさまに、しかも正面きって、皇国的なイデオロギーを注ぎ込む「修身」科や神代からおごそかに説きはじまる「歴史」科のない今日において、教科書なるものを神聖視し、その中にもられた中身を絶対的なものと信じ、それを礼拝して手にするがごときありかたは、表面的にはすっかり影をひそめているかのように見える。 しかし、ずっと以前の、四書五経や往来物等を講説する時代をへて、明治以降にわたって、長いこと形成されてきた考え方の基本線、すなわち教科書を教典視し、それを教師が子どもたちの頭にしみこませていこうとする教育観が全く消滅しているとはいえない。 教科書というのは間違いのないものだ。それは教師以上のものである。それゆえに教師は教科書に身をまかせてそのとおりに順序よく解説して子どもたちに受けとらせていけば事足りる、という姿をとって残存しているものである。現象面の形は変わっても、その底に流れる芯になる考え方や論理は根強く残っているというわけだ。この考え方を、一言もってすれば、教科書即教材即教育という教育観といってよいであろう。 ここではまた、「お上のなさることに間違いはありますまい」という思想もまつわりついている。おのれを虚しうして「お上」を信じきるということになれば、「そのご用には、はせ参ずる」という形になる。そして、「ご用のありしだいに活動しはじめる」ということにもなる。皇国教育が敗退し、民主主義教育が叫ばれはじめた折りに、マーク・ゲインから、このイズムの「観念を日本の青年に教えることが出来ると考えているか」と質問されたかつての皇国教育・軍国教育の支持者であった一校長さんは、「もちろん。東京から命令の来次第──」と「確信をもって答えた」といわれている(『ニッポン日記』昭20・12・26の項)。・・・この返答ぶりが事実そのとおりであったかどうかには疑問の余地はあるにせよ、一面の真実は伝えられているとみてよいであろう。ありそうなこととしてうなずくことができるからだ。が、ひとごととして、笑ってすますわけにはいかない。歴史的に形成されてきたわれわれ教師の心底に、あたかも尾骶骨のごとくにつきまとっていないとは保障のかぎりではないからだ。 これを他面からみると、「お上のご用」「命令の来次第」という、論理こそ教科書即教材即教育の考え方と同質のものといってさしつかえあるまい。否むしろ、教科書即教材即教育という教育観をもっとも象徴的にものがたっているともみられよう。 この論理と決別したところに、自主編成の思想が強固に根づかないかぎり、自主編成の運動のありかたもほんものにはなるまいと思う。「お上」からの「命令の来次第」に自主編成をやるというのでは、根底の考え方において何らの克服・前進とはいえないであろう。エライ人たちが自主編成をおしすすめるべきだというから「およそまちがいはあるまい」とか、ある団体なりが自主編成の意向を強調しているがゆえに「おれさまもやってみるべいか」とか、の動きようも結局のところ、それと同じことになりはしないか。 ところで、教科書即教材即教育という考え方に対立する見解を提出した先人のひとりに沢柳政太郎がいる(『実際的教育学』明治42年刊)。・・・沢柳はこの書の第13章において、「教科書は教典にあらず」といい、したがって「教育は教科書を教ふることで、教師を以て教科書を教ふる所の手段方法に過ぎないものの如く考へること」は「明かに誤ったことと言はなければならぬ」といい、さらに「自分は教科書を以て予め印刷して与へたる所の『ノート』(筆記の代用物)と看るを以て適当と思ふ」と述べた。そして、「実際の教育に於て最も重きを置かなければならぬのは、教師の授業そのものである。」ということを主張したのである。「教授そのもの」というのは「材料の選択、排列、如何にこれを提示するか」を含むものであった。 教科書をもって「筆記の代用物」と見、「教育上に於て左程重要ならぬもの」とする教科書観・教育観の表明は、まっとうに教師の主体性を呼びおこすとともに視点の転換へさおさすものであった。事実、一部において教科目の設定やそれらの始期および教材上の独自の編成がおこなわれ、大胆に教育実験が試みられていったのである。この一事からも推測しうるように、教科書をどうみるかという問題は、決して些細なことではなく、教材観・教育観の全重量がそこにかかっているのだということをまず認識する必要があるであろう。 |
・まったくその通りだと思います。教師も親も、マスコミもです。 ・教科書を否定して、自主編成という名の「教科書」に縛られているという一面の指摘。 ・今は目前の教科書が如何に欠陥があろうとも、それを使って子どもたちがかしこくなれる方法こそ、必要な気がします。 ・言い換えると、教科書と自主編成を調和矛盾として考えること、その実現形態を考えていくこと、その教育遺産を探し出すことです。 ・沢柳の「実際的」ということの思想的な意味を問い直してみる作業が必要でしょう。 ・衰えたとはいえ実践軽視のガチガチの理念派も、元気に見える理念軽視の実践派という二つに加え、自分が中立でいると勘違いしている派も、若い人たちの共感を呼ばない現在、教科書即教材即教育派だけは永く広く浸透しているようです。(2013/04/04) |
傍線メソッドによる思想の形成 長いこと、わたしは、子どもの感想文などをみたあとで、三重丸をやったり評言を種々書いてみたりしたが、期待するほどには子どもをして思想的に発展させることはできなかった。三重丸や評言で子どもは喜ぶけれども、どうもかれらの心底にひびくほどにはならない。こうしたあげくの末に発見したのが傍線メソッドである。 これは実に簡単な手法であり、こちらが読んで気に入ったところに線をひく、という唯それだけの仕事である。そして評言をいれたいと思うときには、できるだけ簡略を旨とした。たとえば「コレハ名言!」「ココ、スバラシイ!」「重みノアル一言」「ウマイ!全ク」・・・・・というぐあいに傍線をひいた箇所にいれてやるのである。 この手法は、意外なほどききめがあった。子どもたちは、これによって自分の文章(=自分の考え・表現・思想)というものを見直していくすべをつかみとったらしいのである。つまりかれらは、こういう単純でちょっとしたことを媒介として自己発見の一つの有力な方法を学びとっていったという次第なのである。 どこに傍線をひくか。最初のうちは各人の分に応じてよいと思っている。ただ、こちらとしては、子どもの創造した名文句(=思想の芽ばえ)を見つけてやろう、それを指摘してほめてやろう、それがきみ自身のことばなのだといってはげましてやろう・・・このような気持だけはもちたいものだと思うだけである。 |
・私も同じことをやっていましたが、それはただ早く仕事を済ませたかったから、というのが正直なところ。しかし、子どもたちは、これによって「自分の文章(=自分の考え・表現・思想)というものを見直していくすべをつかみ」とるものだとは思ったことはついぞ、ありませんでした。ほんと、認識を改める機会は意外なところにあるものだと思います。 |
何でもかでも他人の考えにたよった方が得策だというのが偏見であるように、何でもかでも自分だけで考えなければならないというのも偏見である。 偏見の本質は極端に思い込むことにあるからだ。 偏見というのは、自分でそれとは気づかないのが普通だが、それもこの本質にさおさしているからである。 仮説実験授業の授業過程の中に、「討論」と「予想変更」の段階がきちんと位置づけられていることは、真理追求の場での他人過信と自己過信の二つの偏見が止揚的に克服されているとみることができよう。 なお、仮説実験授業の教材内容の中核を占めているのは、科学上の最も一般的で基礎的な概念・法則であるが、この教育の効果は、子どもに広い視野・展望を与える点にある。一般的で基礎的なものこそ、広範囲の問題解決に役立つからである。と同時に、この内容の教育は、科学的思考の自由さを保証する。感覚的、表象的な次元をつきぬけて高次元の思考を可能にするからである。 偏見克服の指導というのは、とどのつまり、自由に考える訓練をいかに行なうかに尽きるであろう。仮説実験授業のあり方はそれへの一つの解答である。 (「偏見の問題と仮説実験授業」1969.04) |
・偏見の本質は極端に思い込むこと。だからこそ自分の偏見に気づきにくい。 ・もう少し拡大すると、自分の考え・文脈・枠組みに気づくことが難しいのはなぜだろうか。 |
ここにおいて、「人をほめることが道が開ける唯一の土台だ。」(小林秀雄)という言葉もかけねなしに受けとれるのである。それが、自分の意志というより「義務」という形で登校している小学生を思うと、なおさらに「唯一の土台」であることが身にしみてわかるのである。しかし、それはあくまでも「唯一の土台」であって、それでわたしども教育活動は終りを告げるということではないであろう。その「土台」の上に何を建設せんとするのか、ご本人様の前進力を踏まえて、教育はまさにそこから出発するといってさしつかえないのである。 (「発言し過ぎる子・発言しない子の指導」1967.11) |
・私は子どもを褒めるというのをこれほどまでに本人の「道が開ける唯一の土台」であるとは考えては来ませんでした。 ・庄司先生にたくさん褒めてもらいながら此所まで来たというのにです。 ・義務で学校に通う子どもたちだからこそ賞揚がどれほど重要かということに今更ながら思い至りました。 |
たとえば学校、そして授業。 そこでは、子どもたちは、すんなりと、「表通り」の顔をしています。 心得たもんです。 こうすれば、先生が喜ぶだろう、気に入るだろう、そういうことをちゃんと知っています。 日記・作文・詩なども、だいたいは、その線でやって、うまい世渡りをしているもんです。 そういう、気疲れのする精神生活です。なんでもなさそうに見えて、相応に、気をつかっているんです。 まあ、おおやけの場でのありようといえましょうか。 教えられることもまた、よいことずくめの道徳規範が主流をなしています。 いわゆる、表向きの世界です。 それでいて、裏は、とってもドラマチックです。 表通りでは、いかんせん、軽量化したり、また差をつけたがる風潮が、根強く存しています。 できる子できない子 言うことをきく子きかない子 よい子わるい子 それですから、いろんなコンプレックスが生ずるわけです。 葛藤、わだかまり、得意がり、おしのけ、かけひき、あらそい、というように、すごいもんです。 そして時には、大事件を発生させつつも、大方はそれなりに、気をしずめ、なんとか前を向いて歩こうとしています。 これが「裏通り」の精神生活です。 特色は、ドラマ的で、しかも弁証法的なありようです。 この裏通りの底にわだかまっているのが、先にふれた、魂です。 「魂通り」です。 いわば、精神生活の「根」にあたるところです。 死生・あの世この世・兆占禁呪・化け物つき物・神秘・無限者・神や仏・大自然とか大宇宙とか・生命のふるえ・不安、等々。 ここの安定感が、いちばん大事です。 なにしろ、裏通りと直結し、そして表通りを支えているからです。 (「魂通り論」1997.11.21) |
・教育理解の二重性を意味する言葉群です。かんたんに、<格外性と通常性>という言葉でもその区別を可能にしてくれます。 ・これを区別してかからないと、通常性に格外性を持ち込んで現場を混乱させたり、格外性に通常性を持ち込んでは激しい批判を浴びたりと、結局はすっかり疲弊してしまいます。これが「教育理解の二重性」を踏まえない教育現場の実際です。 ・教育理解の二重性という議論は、「人間理解の二重性」に比しうるものです。後者は、<社会的自己と存在論的自己>を骨格とします。これを区別すると、悩みが減ります。ほんとです。 ・庄司先生の格外教育論は、社会的な通常教育に対して、存在論的な教育ということが出来ます。 ・通常教育は、格外教育を基礎とし、これに支えられているのですから、通常教育で失敗しても、格外教育が前面に出て我が身を自己修復のプロセスに導いてくれます。土台の格外教育にささえられない通常教育など砂上の楼閣以外の何物でもないことに気づかれるでしょう。 ・二つをごちゃ混ぜにしないで、ただ区別して考えるだけでいいのです。(2013.02.5) |
なんで「謎とき物語の教育」か 要は、科学的認識の世界の反対側にも、目を向けてもらいたいのです。 科学がよくわかるためには、前科学や非科学のことも知ることが、だいじだからです。 むろん、その逆も、いえます。 また、両者の交流も、存します。 が、今は、非科学面をにぎりとることに、重きを置いて、言及していくことにします。 とにかく、空想的認識、勝手気ままな認識、ファンタジックの認識、幻想的認識の、 ごりやくや面白さに、タッチしていきたいんです。 もっというと、素朴で、幼稚で、子ども的で、 しかも昔的な世界の、すばらしさを見出していきたいのです。 他面でいうと、 くだらないものや、ばかばかしいものの、みごとさを見つけてみたいのです。 そういうのは、わたしどもにとっては、 生きる「根」ともいうべきものに、さおさしていると思うからです。 (この教育の)焦点をどこに置くのか 今念頭にあるのは、「海の水はなぜからいか」とか「くらげ骨なし」とか、 あるいは「さるの尻はなぜまっか」とかの類の、謎ときの創作なんです。 そういう素朴なところに立ってみたいんです。 いいかえれば、です。 そこの、元々の淵源は何か、どういう心持ちや発想のもとに生み出し、創り上げていったのかに、着地してみたいのです。 そして、できたら、その心持ちを復元してみたいのです。 それだけでなく、今の時代の人が、その心持ちに戻ってみたい、しかもその心持ちで、似た話や物語をつくっていきたい、と思うのです。 いわば、そういう原点の内意を、今日に呼び戻してみたいのです。 ちょっと見には、あういう謎ときの話の、 原初的な思想や心情、真実味、いわゆるあの素朴さ、幼稚さ、子どもらしさ、もっともらしさ、の価値を、意識的に、今日のこの世に復活させたいのです。 それというのも、 人間の人間らしさやプリミティブの力、そしてクリエイティブの力のありように、 資するところ大なりと思うからです。 (「謎とき物語の教育──その意義と可能性のとき明かし。そして由来由緒の文化現象への志向」1998.9.11より) |
・「謎とき物語」とは、口承文芸と呼ばれてきた分野の「昔話」のうちの、 「海の水はなぜからいか」とか「くらげ骨なし」とか、あるいは「さるの尻はなぜまっか」とかの一群の話をさして先生が命名したものです。これを鑑賞しつつ自分でも創作してみることによって、前代人の発想や心持ち、表現の工夫を味わいたいという趣意が述べられています。 ・それは、一見「くだらないものや、ばかばかしいもの」に映るかもしれませんが、そのみごとさを見つけたい、とさえ述べられています。なんという庄司和晃らしさ! ・さらに大切なことは、ばかばかしいもの(謎ときの心持ち・発想・表現の工夫)は、私たちの生きる根っこに棹さしていることです。 ・生きる根っことは、社会的な自己でも、家族の一員としての自己でもなく、それらを取っ払ったところに現れる個人としての個人(存在論的自己)のことです。このような物語を学ぶことは、そのような自分の根っこにあるプリミティブな力に資すること大だというのです。(2013.01.29 |
あるものが、存する。 それが、どのようにして、そこに、そう存在しているのか、それが由来というものでした。 そこには、きっと、それを語ったり記さねばならなかった理由が、 相応にひそんでいることでありましょう。 趣意のいわれ、因縁とともに、です。 たとえば、その事蹟をみんなに知らせたいという意志、 また、それは知らせるに価する事柄なんだという判断とか。 あるいは宣伝とか、PRとか。 もうけたいとか、売り上げをのばしたいとか。 誇りたいとか、威を示したいとか。 特別のことなんだと目立たせたいとか。 それにです。 言挙げする際には、ホントということが主軸になりましょうが、 ヨリよくとか、ヨリきわどくとか、が働き、実際のこと以上に、誇張したり、うそをまじえたり、いつわり(フィクション)をことさらに創作して加味するとかも、 なきにしもあらず、でしょう。 他人を合点させたり、信服させたりするには、 ときに権威をひけらかしたり、おどかしたりする必要もあることでしょうから、 何々天皇と故意に結びつけたりすることもあるでしょう。 また、名だたる坊さんをかつぐとか、目に立つ武将とかに縁をつけるとか、 なおまた、有名人とかかわりを持たせてみるということもありましょう。 沿革記や沿革ばなしには、 史観が関与したり、書いた人の主観や独特の解釈が混入することもある筈です 他面では、由来記とか沿革記とかで、あるものを名産化することによって、ヨリよいさらなる製産品へと努力していくことだってあります。 そのごとく、です。 陰に陽に、利害関係ということが、右のしだいには、それとなく侵入しているもんです。 ですから、由来ばなしには、ホントとウソが、うまいこと、からみあって、なんらかの真実が浮上したものだといってよいと思います。 (「由来ばなし文化と教育」1998.12.11より抜粋) |
・現実的なもの、空想的なもの、すべてに由来があるのではないでしょうか。人間の創りあげたもので趣意のないものは一つもないと言った柳田国男の言葉を思い起こします。「由来ばなし」を注目すべき人間文化だとして言挙げした人を庄司先生以外に知りません。 ・別の箇所では、こうも述べています。──「世の中って面白いです。/こういう諸文化を混合的に活用して、なんとかうまく運営しているのですから。/それはつまり、人間のはばかげんを示しているといってよいでしょう。/くそまじめだけではないんです。ホントばっかりで生きているのでもないんです。/あまりめくじらを立てすぎずに、そういう人間の機微を大手を持って受容していきたいもんです。」 ・私が注目するのは「伝統野菜」。最近これは由来ばなしを伴って「地域おこし」に使われています。そこにはホントとウソが絡み合って、何を真実として浮上させているのかを考えたいのです。 (2013.01.27) |
ともかく、私どものまわりは、まかふしぎなことばかり、といってよいくらいです。 それほどに、神秘とは縁が深いんです。 なにしろ、死を背負っての生のいとなみだからです。 「一寸下は地獄」とか、「板子一枚下は地獄」とかのコトワザが存しますが、 もじって言いますと、通常生活の下は神秘の世界なんです。神秘そのものなんです。 まあ、生活の半分は、神秘とのつきあいだ、と思えばよいでしょう。 (「宗教発生論と教育①──人間文化としての知恵を掬い取る」1999.3.25より抜粋) |
・先生によると、「まか」とは、裏方にひそむところの、妙・超・玄という意味。大とか聖とかも含めてもよいそうです。 ・まかふしぎなことは、しばしば人の死に際して自覚されます。日常では不安なときです。 (2013.1.11) |
以上、形式論理学の四原理に、着目してきました。 何はともあれ、この四つの原理は、正しい思考をするばあいには、 どうしても守らなければならないものです。 そう、そのように、「どうしても守ること」とか「必ず守るべきもの」とか、いわれるように、 先にもふれましたが、この四つには、規範の意識がかなり加味されて、 同一律・矛盾律・排中律・充足理由律、 と呼ばれることがあります。 「律」とは、lawのことであり、これには、 法・法律・法典・規定・定則・法則・規則・慣例・律法・おきて、 などの意が含まれています。 そのくらい、正しい思考の方法では、重要なことなのです。 まさしく、プリンシプルなわけです。 あの四つの原理を、日常にもってきて、コトワザ式に、命令形にしてみますと、 ・すりかえるな(同一の原理) ・矛盾はひっこめろ(矛盾の原理) ・あれかこれか(排中の原理) ・筋道を立てよ(充足理由の原理) これを、です。 自分の論づくりや、主張づくりのときには、しばしば、心の中で、つぶやきたいものです。 (「のぼりおり論理学第2部」2005.9.7 第4章論理学の押出し、より抜粋 )) |
・三浦つとむさんの見解を正しく受け取っていなかったようです。すなわち形式論理学は変わらない対象を考えるときに、弁証法論理学は変化する対象を考えるときにそれぞれ使い分けよと覚えていました。 ・でも、どとらかというと、弁証法論理学に比べ、形式論理学は軽視してきました。しかしそうではなかったのです。両者とも、思考の正しさを原理にしたものだったのです。 ・「正しさ」を倫理面と論理面から考えていこと。そして前者は「人の道」に収斂し、後者は「思考の正しさ」に行き着くという指摘にも、雲が晴れるようでした。 (2012.12.14) |
論文は相手に合わせて作る 形式を軽く見てはいけません。 形式とは何か。形式づくりに、しっかりと心を入れるようにしてください。 形式づくりは、研究の方法論のかなめです。おろそかにしないように。 その形式は、単純なものほど、効力を発揮します。 簡単なものほど、役に立つのです。 分類やレベル、箇条をつくるときには、三つぐらいにするのが、いちばんいいです。 おぼえていられるからです。 暗記できないようなものは、とくに実践では、役に立ちません。 ですから、複雑になってきたら、思い切って、捨てることです。 サイノカワラのごとく、さっさと、やり直せばようのです。 図解や絵図づくりの際は、ことのほか、大切です。 単純に価値があるのです。 うんと、ごりやくが存するのです。 主体性を出すとは、自分の書いたものに、惚れるように、おのれのいのちを投入する、ということです。 よそごとにならぬように。 かりものばっかりにならぬように。 ・要するに、です。 書くことは、相手のあることです。 それゆえ、論文づくりでは、相手に合わせることです。 これが第一です。 (「のぼりおり論理学第1部」2005.9.30 第14章論文は相手に合わせてつくる、より抜粋 ) |
・「簡単なものほど、役に立つ」とわかっていながら、この名言採集でもつい長い言葉を集めたくなってしまう。どうしてそうなってしまうのか。大事なことを絞りきれないのでしょう。要するに「自分にとって」という観点が希薄になっているからだと考えます。 ・ついついあれもこれも覚えられほどのポイントをつくろうとするのは、昔からのクセ。役に立てるという意識がうすいんです、きっと。 ・あれもこれもそしてそれも入れようとするので、文章がねじれてしまうのでしょうか。 ・若い頃、「よそごと」「かりもの」を戒められたこと、忘れていないつもりです。 ・「相手に合わせる」とは、読む人の望むことを知るということ。書く前、書くアイディア段階から考えるクセを作ること。 (2012.12.03) |
のぼりおり論理学。別言しますと、それは、認識ののぼりおりを踏まえての論理学の展開ということです。知識人と大衆とをつなぐ論理学を出現させたい、と思っているわけです。(中略) 「のぼりおり」の導入は、その大衆化を、ヨリいっそう、進めてくれることでしょう。 ※ 正しい思考法を身につける。 人にだまされない。 人をだまさない。 よしあしを見抜けるよう。 (「のぼりおり論理学第1部」2005.9.30 緒論の「趣意補説」より ) |
・認識のノボリオリは大衆化という契機を含むこと。と同時に、大衆化を逆に辿れば「入門」になります。 ・入門の本質は、入門しようとする世界(異文化)における正しい思考法を身につける過程といえるかも。 ・正しい思考法を身につけるのに、「人にだまされない」という動機はしばしば口にされますが、「人をだまさない」とは、この時代においてなんと清々しい響きでしょう。(2012.11.28) |
論文づくり、その方法には、「何々とは何か」という攻め方、効果的です。 いわゆる「とは」思考法の活用です。 つまり、上段のかまえで、まっこうから、本質(急所)へ推参していくことです。 もっとも哲学くさいアプローチです。そういう論文づくりです。 「何々とはなにか」 この、ばかでかくて、の見えない、一見してばくぜんとしたテーマこそ、書く人間をきたえるのです。思考力をうんとこさ、訓練してくれるんです。 なぜなら、自身の考えを、どうしても出さざるを得ないところへ、追い込んでくれるからです。だから、思想づくりの鍛錬法、といってもよいのです。 そのように、雲を使むような世界へ旅立たせる、この人生では、何どか、こういうのにチャレンジさせたいものです。自分の歩く道づくり、おれだけ・あたしだけの道づくり、つまりは独創力発揮のいきおいを持たせたいからです。 そのうち、ばくぜんとしたものとのつきあいから、限定してものを言う知恵、ないしは自分自身の取り組む範囲を見定めるというような条件的な方法、そういう才覚を持つようにもなるでしょう。好ましい進展ぶりです。 そして何より、そういうばかでかいテーマをこわがらなくなることです。 恐れていては、書く手もすくんでしまいます。 そこを突破するのが、とにかく書いてみるという行為です。どう書いても、おれはおれだ、と腹を据えれば、よいわけです。 (「のぼりおり論理学第1部」2005.9.30 第3章「とは何か」の論文づくり、より抜粋 ) |
・つい、枝葉末節にこだわってしまい、全体像や本質がなにかをおざなりにしてしまう私にぐさっと突き刺さります。 ・いつも「何々とは何か」と問うことは、思想づくりの鍛錬法になるという指摘、忘れていました。結局、相手を問うことは自分自身を問うことに返ってくるのです。 ・「とは」思考法を、「とにかく書いてみる」ことに結びつけていく。ここが大事だ。 (2012.11.28) |
文章のこと わかる文章をつくることです。 わかれば、それでよいのです。 わかる文章であれば、もうすでに、そこには、論理的思考がつらぬかれているのです。 えっさえっさかく。 とにもかくにもかく。 うんとこさかく。 早くかく。 いっぱいかく。 質より量を、めざす。 ダイナミックにかく。 「とは何か」の思考法をつかう。 抽象・具象をつかう。 のぼりおりをつかう。 キッカケ言葉をつかう。 体験・経験をつかう。 比喩・絵図をつかう。 エピソードを存分に、つかう。 自他を区別してかく。 引用はうまく。 自分らしさを出す。 変わったことをとりあげる。 たれもいわないことをいう。 独創を恒に意識する。 すなわち、論文づくりの恐怖をなくし、書くことに少しでも喜びを見出し、あたかもドラマをつくるように運び、ユニークさを押しだしていく、ということです。 独創です。 はじめっから、独創を意識してやることです。 「あとから」「いずれ」「そのうちに」では、日暮れて道遠し、になってしまいます。 (「のぼりおり論理学第1部」2005.9.30 第10章文章のこと、より抜粋 ) |
・「わかる文章をつくること」。このシンプルさに徹底できない自分が居ます。 ・えっさえっさかく。ダイナミックにかく、自他を区別してかく。どれもこれもわかっているのに使えないヒントばかりに悄然。 ・名言の効用は、わかっていたことをヨリ意識的に使えるようにすることだ。 ・論文でも、「あたかもドラマをつくるように」とは、ハッとさせられます。論文は小説ではないのだから、・・・と常識にとらわれていた自分に気付かされます。 ・「あとから」「いずれ」「そのうちに」など、しばしば使っていました、自分のいいわけに・・・。 ・名言を意識化するということは、さっきより今、今日より明日、少しでもより良く生きるための心覚えです。 (2012.11.29) |
(文章を綴った感想における短所の自覚について) その謙虚な反省は、わるくはありませんが、少しく多すぎます。困ったもんです。 あまりにも長所が少なく、短所の面が多いので、こっちのコメントとしては──。 ・あんまり自分自身をいじめるな ・ちょっぴりでも、よい点を見つけてみよ。 ・自分がかわいそうだぞ。 ・自分の思っている短所を、他人から、そっくり言われたら腹も立つだろう。 ・もう一人の自分を心に持って、おのれを眺めてみよ。 ──と、言ったくらいです。 献上の美徳が出過ぎているように思ったからです。 もう少し、“自分が自分を育てるように自分を見る”ことが、肝要だと思うからであります。 そもそも、私が、学生に「感想」の二・三行を、必ず書かせるのは、おのれの主体へのたちかえりを、せつにねがっているからです。 講義をきいたり、論文やレポートを作って、新知見をかくとくするのもいい、また新方法を身につけて行使するのもいい、いずれも大事です。 しかし、です。それよりもっと大事なのは、おのれ自身の主体がどう変化し、いかに肥えていくか、です。 つまり、自分自身の“人生観”にどうひびいたか、です。 そのために、私は感想がきに、ことのほかの重みをおいているんです。感想がきは、たくさん書くのを要求しては、だめです。二・三行で、十分です。 (「のぼりおり論理学第1部」2005.9.30 第10章長短はつかんでいる、より抜粋 ) |
・ずっと若い頃でした。夏のある研究大会のナイターで、庄司先生は差別問題に触れて、「あんまり自分自身をいじめるな」とおっしゃいました。私の背中を押してくれたのです。それ以来忘れずにいた名言です。 ・「あんまり自分自身をいじめるな」というコメントは内省的過ぎる人間にとって大きな励ましです。悩みに囚われた者にとって「自分が自分を育てるように自分を見る」という言葉がいかに気を晴々させるか。 ・感想とは「おのれの主体へのたちかえり」もまた名言です。 (2012.11.30) ・人生観にひびかないものは思い切って捨ててしまおう。 ・感想は二、三行で言い切れ。 |