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しんらばんしょう
 全面教育学研究会通信


 発行年月日  通信 コンテンツ
161228   しんらばんしょう28号 ○庄司先生が亡くなってからどれほど経ったのでしょうか。○ご意見があれば遠慮なく、○今後の活動 
 161001 しんらばんしょう27号  ○「追悼集」発刊、「偲ぶ会」無事終了 ・追悼集ついに発刊 ・奥様もみえて「偲ぶ会」盛大に ・6月例会報告/篠原賢朗 「人の道一生論」、徳永忠雄 「菊池寛 『入れ札』考、滝北利彦 紙芝居「ロボットイチローとサボロー」 ・収支報告について ・全面研にピリオドを(提案 徳永)
160601  しんらばんしょう26号  ○偲ぶ会は9月18日(日)に決定 ・言葉の魔術師 ・小学生と障がい者との交流にみる「障がい者に対する認識の深まり」に関する研究 ・小学二年生の「心づかい」と「ハラの言葉」の養分 ・庄司先生追悼プロジェクト進行状況 ・今こそ全面研の存在を
 160101 しんらばんしょう25号  ○追悼集 編集作業始まる 追悼集編集方針を巡って ・息子さん父を語る ・原稿魔だの方、急いで送付を ・人の道一生論/臨終、魂の行方編 
151028  しんらばんしょう24号 ○墓参と追悼集検討 ・追悼集の原稿締め切り12月4日 ・ 漢字の手書き文字には許容範囲がある ・印象教育の場所 ・『草枕』から ・国語教育なくして英語教育なし ・緊急例会のお知らせ
 150801 しんらばんしょう23号   追悼集に全力を ・庄司和晃追悼集の編集委員決まる ・全面研の今後について ・例会当日紹介できなかったメッセージ ・自前の介護の原則を見つけようぜ! ・柳田国男の道徳観の使い方
 150401 しんらばんしょう22号 先生の遺言:全面研は続けて下さい・庄司先生逝く ・今後の全面研を考えて下さい ・全面研全体協議 
150401  しんらばんしょう21号  ・認識とフィールドの系譜 ・ 地名学習の進めと研究会の案内 ・提唱・人間社会規範 ・ゼミ生達と取り組んだ「アクティブ福祉in町田2014」 ・ことわざ学習も一歩から ・間とは何か ・私の研究遍歴(4)
 150101 しんらばんしょう20号 ・研究会紹介 ・私の研究遍歴(3)  ・人の道一生の教材化の構想 ・クライアントに届かない言葉は心を通過しない ・これだというものを探したい ・指名の技術(前編)
 141001 しんらばんしょう19号  ・私の研究遍歴(2) ・介護の流儀 ・しりとり遊び ・日常から考える歴史感覚 ・全面研ホームページの移転完了
 140701 しんらばんしょう18号 
(旧19号)
・今年の年報 ・ハラの言葉 ・学校現場が求めるメンタル福祉教育 ・現代の親に見る子育て観 ・授業/「伝え」の認識論 ・呪術/宗教教育 ・ことば遊びドリルに挑戦 ・E君へ  ・認識の「のぼりおり」論の新展開 ・新参加者紹介 
140401  しんらばんしょう17号
(旧18号)
・宗教教育から始まる庄司学 ・ 「人の道一生」の教材化への構想2 ・これでいいの安倍政権の教育「改革」 ・ことば遊びドリルに挑戦 ・新参加者の紹介
 140101 しんらばんしょう16号 
(旧17号)
・座談/気付くのはどの段階なのか ・「人の道一生」の教材化への構想 ・コトワザコンクール ・論理学講義 ・常民大学は熱かった ・書評/時枝誠記『国語学への道』 (三省堂 1957) ・年報作成のお知らせ ・復刻庄司和晃著作「日本民俗の霊魂観念について(1954)」 
 131001 しんらばんしょう15号  ・座談/三段階理論の日常化 ・ 日本人は概念化が苦手か ・認識の「のぼりおり」の新展開──ストラテジー論 ・絵解きコトワザ──下りか横ばいか ・やまとことばと百人一首と現代 ・コトワザDEEP ・HPについて ・常民大学東京大会のご案内 ・世相史研研究会近況報告 ・マリオ書房在庫案内 ・書評/磯田道史『日本人の叡智』(新潮新書)
 130701 しんらばんしょう14号  ・庄司先生、楠田さんに熱く語る ・「らしさ」をおりる ・紙上年報報告会──・人間にとって精神とは何か(1) ・活動は修業なり ・<教育>と○○教育や訓練との違いを考えたい ・ことば遊びコレクション‘12 ・宗教教育への道 ・庄司和晃・未来教育一学徒 ・庄司和晃と吉本隆明 ・「平地人」とはだれか(2) ・3.11被災地を歩き見て聞く ・「推敲読み」で論理的思考を高める ・『明治大正史世相篇』をめぐって ・書評:京極夏彦『遠野物語 remix』 ・ネットで著名の理科教師楠田純一さん登場 ・リンク・世相史研究会 ・復刻庄司和晃著作「仮説実験授業で育つ思考力」
130101  しんらばんしょう13号  ・論理的思考をまとめる ・創作仏像(その2) ・澤柳政太郎異聞 ・中学生のものの見方考え方 ・復刻庄司和晃著作「序 柳田国男の論理」
 121101 しんらばんしょう12号  ・澤柳政太郎研究の目途 ・病気の三段階作り ・仏像つくり教育の第一歩
・庄司和晃と吉本隆明 ・<詩>を遊び、表現を楽しむ ・全面研HPの充実を
・柳田没後50年国際フォーラム報告 ・飯能ものづくりフェア案内
・復刻庄司和晃「柳田社会科と仮説実験授業の授業書」 
120801  しんらばんしょう 11号 ・「何の為に理科を勉強するのか」 ・「科学」の三段階論文作り ・唱えごと文化と教育2 ・ ホームページ公開間近 ・新境地に ・中学校とは 
・小田さんからの紹介 ・例会案内 ・復刻庄司和晃著作「庄司和晃の理科」
120601  しんらばんしょう10号
・コトワザの歓迎度  ・アリンコとはなにか  ・気づきの<網>を張る、
・養護教諭の保健指導に見る認識の三段階  ・お久しぶりです
・波瀬満子さん逝く  ・復刻庄司和晃著作「柳田国男と科学教育」
 120401  しんらばんしょう9号  ・自分の学問と人生  ・気づきの<網>を張る  ・冒険する認識論 
・小田さん作新学院の特任教授に  ・久しぶりに篠原さんと再会 
・今年度全面研年報ラインナップ ・追悼吉本隆明「無方法の方法」より
120101   しんらばんしょう8号 ・今も生きる認識論 ・庄司論理学の大系要目 ・「ホームページ」進行状況
・比喩論の可能性 ・全面教育学会の立ち上げを ・2011年度全面研年報 原稿締め切り迫る ・世相史研究会報告 ・例会案内 
・復刻 庄司和晃著作「科学教育の意義」 
110901  しんらばんしょう7号  ・柳田教育論と庄司認識論 ・学校が始まる前から教育は立派に成立していた ・コトワザ教育集成 ・型はめ創作コトワザ ・授業に比喩を ・歴史性を受け継ごうとはどういうことか ・全面研HP準備中 ・武田さん近況 ・小田さん近況 ・向井さん近況 ・本の紹介 江口司『柳田国男を歩く』 ・次回例会のお知らせ ・復刻庄司和晃「昔からの一大事ともいうべき因縁」
 110620  しんらばんしょう6号  ・コトワザ教育集成 ・コトワザの構造と認識の成立 ・表通りから裏通りへ、そして魂通りへ ・授業「ひゆの研究」余録 ・全面研HP準備中 ・手紙文庫を被災地へ ・次回例会のお知らせ ・震災に寄せて 柳田国男「二十五箇年後」 
 110301   しんらばんしょう5号 ・コトワザの構造化 ・「苦しいときの神頼み」の発生 ・今をどう切り抜けるか ・繰り返し、繰り返し ・認識における制約と拡張 ・『ことわざに聞く』発刊 ・小田さんのホームページ見ましたか ・NPO法人Small School Chinngenの紹介 ・2010年報完成 ・次回例会のお知らせ ・復刻庄司和晃著作「今日への示唆をくみ取る」
110101   しんらばんしょう4号  ・「認識」を認識する ・「認識」を整理する ・「猪木のビンタ」 ・TBSラジオ番組裏話 ・コトワザ表現の「伸び」と「縮み」 ・「ことわざ」はどのように理解されているか ・紹介できなかったレポート ・復刻庄司和晃著作「つつむ雰囲気の温かさ」 ・次回例会のお知らせ
 100901  しんらばんしょう3号  ・「竜とはなにか」ミニ三段階論文つくり ・庄司和晃論 ・常用漢字にもの申す ・「ハレ」と「ケ」の自覚 ・『遠野物語』100年 ・次回例会のお知らせ 
 100501 しんらばんしょう2号   ・今年の年報は今までとちがうぞ ・追悼日高敏隆「日高敏隆と庄司和晃」 ・無意識の認識の解明 ・年報目次 ・リテラリズムのパワー ・ほとばしる童心の感性 ・歴史を法則でとらえられるか ・「人口と移住」の源泉 ・庄司認識論の一つの適用 ・復刻庄司和晃著作「劣等感ふき飛ばしのプロセス」 
 100301  しんらばんしょう1号 ・全面教育学リニューアルスタート ・2/13今年はじめてのさぶらうの会 ・2/20世相史研 柳田国男の世相論 ・2010年度版『年報』はまもなく完成 ・柳田社会科中学校版はどこにある ・次回定例会のお知らせ ・全面教育学会を立ち上げよう ・庄司先生講演会のお知らせ ・復刻庄司和晃著作「理想を現場で生かす術をどう磨くか」
   

 

 
       
 



全面教育学研究会通信
012.8.1 No.11
 
《6月例会報告》
ホームページ完成間近

尾崎さんの編集による
全面研ホームページ
パイロット版が紹介されました
この夏にも公開されます
 

「何の為に理科の勉強をするのか」
   ──銭形平次的教育論──
             庄司 和晃

 これは、庄司先生の講演録の一つである。この講演は、1982年6月に成城学園で行われたもので、今までの庄司先生の理科研究の歩みを語った貴重な講演だ。

 1960年当時の理科教育は、科学の法則や理論を集めたソビエト派(科学教育研究協議会)と、経験主義に基づいて考えることを重視したアメリカ派(文部省)に分かれていたという。成城学園の庄司先生は、私学の理科としてそのどちらでのない理科教育を模索し「男だったら一つにかける。かけてもつれた謎を解く」と歌われる銭形平次のテーマソングにあやかって銭形平次的理科教育論すなわち、謎解きの理科教育を考案していく。これがやがて仮説実験授業となり、さらに認識論につながっていくというわけだ。

 この謎解きは、実は日本の前代教育の根幹であったという発見(柳田国男研究からのものであると思われる)から全面教育学にシフトしていく様子がよくわかるのである。一読を。
 

「科学」の三段階論文作り
            庄司 和晃

 
 アリを使っての三段階論文作りから「科学」を認識する三段階論文作りと高度な実験が庄司先生から報告された。

 「科学とは」という言い切り文言による認識作りである。先の理科教育では、科学とはこうであるというのが教育として教えられているが、ここでは自分自らが科学をどうとらえるかという認識作りで、言うまでもなく正解というものはない。 

 そして、庄司先生が言うところの「科学は謎解きだ」という言い切りも何人か登場する。さらに注目すべきは、実験と経験が違うと言う点だ。これは「科学とは、経験や知識のたまもの」という論と「科学とは、実験などにより実証された学識」論の違いからの指摘だ。

 庄司先生は、実験は経験と違って「予想」がある。そしてそれが当たったかどうかはっきりする。その意味で科学的だという。さらに今回のレジュメでは、「○○○と聞いて3つ」というイメージの結晶化の試みが紹介された。「科学ときいて3つ」では「実験-予想-結論」というイメージ化が多かった。また「宗教ときいて3つ」では、たとえば「神-集団-伝統文化」がみられる。このように、3つに絞ることで考える行為つまり認識が発生するというわけだ。これは様々な場面で有効だろう。

 

「唱えごと文化と教育」その2
              篠原 賢明

 柳田の『先祖の話』には、「じいさん、ばあさんこの灯りにおいだいおいだい」という盆の迎え火のまじないが紹介されている。これは今でも私の故郷北信濃で流布されている唱えごとで懐かしい。柳田の『民間伝承論』では、「普通の人を相手とせず、目に見えぬもの即ち神とかある種の霊威とかに言う言葉」と紹介されているのが唱えごとだ。

 この唱えごとを授業で取り上げたのが本稿である。唱えごとが、「ちちんぷいぷい」や「くわばらくわばら」だけでなく、避難訓練の「お・は・し・も」(押さない・走らない・しゃべらない・もどらない)にも転用されているという冒頭の指摘は誰しもうなずけるものだ。そして東日本大震災にも話が及ぶ構成はタイムリーで示唆的だ。
 
 唱えごとは、広い意味でコトワザの一種であり、短い言葉を繰り返すことで伝承されたと柳田は指摘する。それが現在でも子供達の中に濃厚に残っているのは、民間教育の一つとして使われてきたということである。そこに、学校でも唱えごと教育を可能にする意味があるといえるだろう。   伝承文化は、古い伝承を捜すことにはじまり、それを使うおもしろさを体験し、さらに新たに創作するという、コトワザ教育と同じ流れで行うことができる。

 これは、無意識に使われている唱えごとを再確認し、先祖の知恵を学ぶという意味でも価値があるのはいうまでもない。真言宗の経文にある「アビラウンケンソワカ」も白日の教室でみんなで認知することによって再び新たに蘇るのである。

 さて当日の参加者の意見は、以上の点をふまえて評価が高かった。その中で毎年の日教組の教研に講師と参加している長谷川さんの「多くの人に説明が必要だ」という意見は傾聴に値する。それは全面教育学のコンテンツが、一般にまだ十分に浸透していないからだ。

 我々がフィールドとしている教育の世界は、学校教育の比ではないのだが、教育を支配する学校という場面において相容れない面があるもの事実だ。それでも、1970年代以降の学校教育現場の中で、我々はたとえゲリラ的でも様々な実験的試みを行い、教育の本質や思考の本質を問うてきた。教育現場で世代交代が起こっている現在、全面教育学が目指してきたものがこのまま我々だけの財産にとどまっているのは残念なことでる。長谷川さんの指摘は奇しくもその点を指摘しているのである。

 庄司さんは、この篠原さんの論文を「呪文教育もまとまった感がある」とまとめた。その意味で我々も全面教育学の様々場面で「まとまった感」を見いだしていかねばならないのである。


ホームページ公開間近
             尾崎 光弘

 篠原さんのところで書いたとおり、ホームページは重要な全面教育学の広告塔になっていくだろう。ホームページ担当の尾崎さんは、このホームページが「庄司和晃研究の資料センター」の役割を担うといったが、それだけでなく長年研究をともにしたメンバーの実験成果の窓口になる必要もあるのではないだろうか。

 これに先立って庄司さんからは、「庄司研究系統樹」というものが提示された。我々一人一人もそれに習って研究の流れを作ってみる必要があるだろう。尾崎さんからはメンバーのプロフィールを提出するようにといわれているので皆さん是非ご協力を。



 新境地に
         向井吉人

前回の例会に参加できなかった向井さんから新たなレジュメがいくつか届いているので紹介します。

・ことばっちの冒険〈5〉〜〈8〉
 日常の風景から言葉にアプローチするという手法で各業ページで紹介される。TV番組など視界に入っては消える日常の様々なシーンをあらためて文字にするという作業は、文字にしてこなかった前代人の教育を柳田が文字化したという業績に似ていないだろうか。あらためて目まぐるしく変化する言葉の中で意識的にも無意識にも言葉の向こうにある社会を垣間見ることになることに気づかせてくれる。

・連載 文庫本で読むことば遊びセレクション
 森絵都や清水義範など言葉にこだわる諸氏の本の紹介。いうまでもなく紹介しながら向井さん自身のこだわりのすごさが伝わってくる。

・けつの穴ブリキ
 大学生になるまで生活してきた三重時代のことば遊び体験について向井さんはあえ
て封印してきたという。今回はその高校生までの言葉にまつわるエトセトラが民俗学的に展開されてすごい。ほぼ同時代に長野で育った私にもこの土俗的ともいえる言葉の世界はくすぐったい懐かしさがあり、向井さんの新境地という感じがした。

・追悼私記 はせさんさんと
 波瀬満子さんとのエピソードを含めた追悼私記。全12ページ。波瀬満子さん燦燦と輝く、といいたくなる追悼記である。 

このパワーに脱帽!



中学校とは    徳永 忠雄

担任をする中学1年生の子供達の中学校観を学級通信で紹介。
・中学校は会社みたいだ。そのわけは決まりがし っかりとしている。
・中学校は近所のおばさんみたいだ。自分のこと は言うけど人の話は聞いていないから。
・中学校はジェットコースターだ。
 さてそのわけは?


 小田さんからの紹介
国際フォーラム
21世紀における柳田国男

柳田国男は世界でどう読まれているのか?柳田国男没後50年の節目にあたる本年、国内外から識者を招き、フォーラムを開催します。
日時:8月23日・24日
場所:遠野市あえりあ遠野交流ホール
講演及び出演者/赤坂憲雄、ロナルド・A・モース、福田アジオ、三浦佑之、メレック・オータバシ、小田富英 ▲連絡は小田さんまで
 

次回例会は10月です
日時:10月6日(土)14:00
場所:成城学園 正門脇大学棟3F
内容:ホームページ検証 ほか
日時を確認してお忘れ無く
 
 

 復刻 庄司和晃著作
庄司和晃の理科
 

(1)謎解き
「男だったら一つにかける。かけてもつれた謎を解く」…「かける」って云うのは良いですな。我々知ってたんです。「予想」ですよ。「かける」んですよ。かけないから謎解けない。どうやって謎解いていくのでしょう。これ「科学の本質」、だから理科の本質は、「謎解き訓練」とこう云う事です。「謎をいかにして解くか」って云う事なんです。これがいいのは誰でもわかるからです。「ナゾナゾ」で経験してきているから。「研究」とか「探求」とかいったら「何や」ということになるでしょうが、「謎解き」わかるでしょう。「謎」というのは、「正体不明」であるとか、「ひみつ」であるとか、「ふしぎ」と云うヤツです。それを解いて行くって云うことです。

…日本人は、一生の体系の謎を解いたんです。我々のご先祖様達が、この世の道、一寸先は闇の世界の数十年をいかにして渡って行ったら良いのかという事で謎を解いたんです。その成果は、神秘的だとか、神様くさいなんて云われるかもしれないけど、解いた事には変わりないんです。それと同時に、一方では子供をかしこくする系列って事を、そんな事意識しないでやったんです。かしこくする一番最初「メーッ」です。…その次は「イナイイナイバア」です。そして「あてっこ」です。次に「ナゾナゾ」そして終点は「ことわざ」なんです。ここまでは遊びです。そしてこの謎をどう解くかと云うとほとんど直感です。我々の仮説実験事業の側から云うと、そういう直感的なところから発展していくんです。それを昔の人は、「科学」なんて上品な事を考えないでちゃんと頭で訓練していった。ですから明治になってこれだけの西洋の財産を受け継ぐ出来ていたと云えるんです。でこの系列はかしこくするプロセスなんです。自然な形でかしこくして行きますね。「これは裏が解る」って事です。だから「メーッ」って云って「目を見よ」と云うのは、「お母さんの目は大きいわねー」なんてことじゃなくて、「おこってんですよ」という感情を伝達している訳なんです。「イナイイナイバー」なんて唯物論教育をやっているんです。「かくれておっても存在しているんですよ」って。ナゾナゾもそうです。裏がある。山でコイコイ里でイヤイヤなーに」、日本の古典的ナゾナゾです。「山でコイコイ」は「ススキ」で、「里でイヤイヤ」は「サトイモの葉」のゆれる事。これは抽象命題を出して具体物を当てさせるって云う事です。それを逆転させたのが「ことわざ」です。こんどは非常に具体的に云って後にことわりがありますぞって云う事。

…それでは、その果てに何があるのかって云うと、それを近代と合わせると、後に「弁証法」が存在してるんです。弁証法って云うのは何の事はない、「結局ものごとには裏があるんです」って云う事なんです。「ものごとには裏がある」こう云う考えが、現代のかしこくなる一つの有力な武器です。
  
           講演「何の為に理科の勉強をするのか」1982.6.4 成城学園復刻庄司和晃著作


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   全面教育学研究会通信
  2012.06.01 N0.10


 
 
《4月例会報告》
11年度全面研年報合評
全面研の年報はもうすでに
20年以上の歴史を経ました。
それはひとりひとりの研究の足跡であり、
今後の様々なステップの礎になるはずです。
 
 

コトワザの歓迎度
庄司 和晃
 

 庄司先生がポラリス看護学校の生徒にアンケートした論理学の内容の人気ランキング(歓迎度)によると以下のような順位になったことがわかる。

1位 コトワザの論理
2位 認識の論理
3位 一生の論理
4位 弁証法の論理
5位 科学の論理
6位 宗教の論理      (2011)
 
 その感想によると「コトワザのすごさがわかった」「事や物を使って伝えたいことを凝縮させるコトワザは、本当に感心したし、興味が持てたし、奥が深い。」「コトワザについてはじめて深く考えた。」等々…。
 「コトワザ」「認識」「人の一生」「弁証法」と庄司認識論は様々に派生していく。そして、今まで認識の一過程と見ていたコトワザだが、コトワザそのものから深い認識過程の分析が庄司先生より為されている。まさにコトワザは認識論として奥深いものとして頭に刻んでおかねばならないだろう。
 
 
 
アリンコとは何か
庄司 和晃

 庄司先生がシャーレーに入れてアリンコを持ってきた。庄司さんによると、今年は女王ありはさむさで越冬できなかったらしい。そう熱っぽく語る庄司さんの姿を見てか、武田さんによると庄司先生のアリンコ観察は、相当のものらしい。

 右は、篠原さんのクラス(小学校6年生)の「アリンコとは何か」の三段階論文作りの一こまだ。実際のアリンコを観察するうちに子供たちのイメージはどんどんと広がる様子がわかる。そこがこの日常の中にいるアリンコを取り上げたおもしろさともいえる。

 このアリンコ観察を経た三段階論文作りにより、日常の様々な事物や抽象語に対しても「認識論」が応用されればしめたものだと思う。 
.

  気づきの〈網〉を張る
植垣 一彦
 

 柳田国男の「山バトと家バト」(『少年と国語』所収 1947)の中にこんな一節がある。「これによって心づくことは、これからは、いまよりも、もっと正しく、美しいことがば、つぎからつぎへと、生まれるようにしなければならぬ、ということである。」

 
中の「これによって」とは、山バトの鳴き声を「テデ コォケー  アッパー ツウター」(父ちゃん 粉を食え、母ちゃんか 粉をついたから)と、もの悲しく聞きなしをしたことを指す。大凶作にさなかの東北ではヤマバトの鳴き声を単に音として聞いた(気づき)から、さらに聞きなしとして(心づいた)ということを柳田は言っている。

 植垣さんは、このような一連の認識のプロセスを 気づく→心づく→考えつく という三段階にまとめて、なるほどと思わせる。そしてこの三段階が「学び」と意識された時より深まった関係をつくっていくというのだ。すなわち、気づく関係から、心づく関係は、感覚的関係から表象的関係にステップアップするということになる。さらに、そこから概念的関係になるには、考えつくという段階に達するのだ。

 気づくためには、それなりの経験の蓄積が必要だ。子供の変調を気づくためには、通常の日常性をふまえた上で判断しなければならないからだ。その経験が「網を張る」という行為に発展する。〈気づく網〉〈学ぶ網〉という表現で、我々は日常を切り取ることを意識的に行っている。気づきは認識の第一歩なのだと読み取れる。

 会の中で、長谷川さんがこの論に異議を唱えた。気づきの中にも三段階のプロセスはないだろうか、という指摘である。われわれは日常の中で三段階理論をかなり援用しているが、そのプロセスを互いに確認する必要はあるかもしれない。
 


養護教諭の保健指導に見る認識の三段階
篠原賢明
 

 今回篠原さんが持ってきたレポートは、彼の勤務先の養護教諭が最近行った「同じ食材なのに、調理方法によって異なる油の量について知ろう」(6年生対象、実施時間は約10分)というミニ授業を認識の三段階理論にあてはめてみたものである。

 右図は、子供たちが日常口にするおやつを取り上げ、その脂分をわかりやすく明示している。具体的な食材を見せたあとこの図を見せてこれを第二段階の認識だとし、さらに油を摂りすぎるのは良くないという結論で、第三段階だとする認識のプロセスを紹介してくれた。これについて様々な意見が出た。たとえばこの図が第一段階か第二段階か、という点。わかりやすい図だが結論への誘導ではないかという点など。

 結論から言えば、授業者が意識して三段階理論をふまえているかどうかが重要であるということになった。先の植垣さんの気づきにもつながるのだが、我々は様々な事象から意図的に認識を深めることを取り出していく試みは重要であると思わせた実践紹介であった。

 お久しぶりです
  長谷川さん、篠原さん登場

 しばらくご無沙汰していた長谷川さんと篠原さんが久しぶりに4月例会に顔を見せた。長谷川さんは、毎日新聞記者を経て大学で新聞研究の講義を持ち今回、定年を迎えたとのこと、また長年勤めた日教組の教研の講師も長年勤め終え、何かすっきりした様子でもあった。今後は、自らの経験から編集論をまとめたいとのことであった。乞うご期待。

 篠原さんは、この春、私の故郷でもある長野で久しぶりに再会し、今回の会報についての意見を交わしたことが直接にきっかけとなって一念発起で会に参加してくれた。長駆、車での長野から駆けつけてくれたが、全面研が高齢化する中で、篠原さんは庄司認識論を小学校の現場で実践している数少ない重要メンバーのひとりとなった。今回の現場のホットな実践を紹介してくれた。

 なお、石毛さんから編集部に「言わずに死ねるか!」(石毛 拓郎)という熱いコラム集(組合機関誌に連載されていたもの)が4月に届いた。悲憤慷慨というサブタイトルのあるこの冊子は、思わずすいこまれるように読んでしまった。これは時事問題をテーマにした辛口の檄文集である。吉本髢セが嫌いだと自認する石毛さんの吉本批判は鋭い。右も左もわからない若者にこのような洗礼は必要かもしれない、と読みながら思った次第である。
 
 
 
 
波瀬満子さん逝く 

 向井さんの情報によるとことば遊びの会の波瀬満子さん(はせ・みつこ、本名・白波瀬智子 ことばパフォーマー、女優)が4月19日、急性腎不全のために亡くなられたとのこと。波瀬さんは、劇団四季を経て、詩人の谷川俊太郎さんらと「ことばあそびの会」を設立。NHK教育テレビの番組「あいうえお」に出演し、CDでおなじみの「あいうえお体操」などで知られた。我々のなかでも小学生の授業で取り入れたメンバーも何人もいる。ご冥福をお祈りしたい。
 
 
 
*   *   *
 
 
4月例会参加者:庄司、植垣、小田、武田、篠原、長谷川、向井、尾崎、徳永

 
 
 
 
 
 
【6月例会のお知らせ】
日時:6月23日(土)14:00〜
場所:成城学園正門脇大学棟3F
内容:庄司認識学講義
11年度年報合評の続き
ホームページ内容検討
例会は、6月・9月・11月・1月・4月を

 
 
 
 復刻 庄司和晃著作
 
柳田国男と科学教育
 

… 私が仮説実験授業をやってみてわかったことですが、柳田は自分の学問作りにおいてさかんに「見込説」や「直感説」、もしくは「仮定説」や「想像説」を前面に押し出しつつ大いなる発見的仕事を成し遂げています。

 正に予想実験的ないしは仮説実験的行き方です。その行使です。しかもその意識性を感じさせないほどに自然なる行使です。

 すなわち、柳田が行ったのは、ただ単に事実を集めて共通点を引っ張り出すというような、見かけ上の帰納的研究法ではなかったのです。
この点を見落としてはならないことだと思います。

 それかといって、どこまでも、あるいは何から何まで、そうであったとは言い切れません。そうした混在感はあります。
 それにしましても、「仮定説」や「想像説」の駆使的あり方は、柳田の方法論の積極面として高く評価すべきことでありましょう。

 日本人の学問作りの特質度や実力度を示す重要な証拠でもあるからです。

 話は変わりますが、私自身は、今出た〈矛盾〉とか、もしくは〈異説接触〉とかは、妙に好きです。矛盾にはよい矛盾もあればわるい矛盾もあります。ことのほか良い矛盾が好きです。大好きです。

 それはなぜだろうかと思想的に振り返ってみますと、私の腹の底には、私の腹の底にはマンダラ主義がとぐろを巻いているからです。そのとぐろが何かれとささやいているからです。

 弁証法デナイト駄目ダヨ・一方的ニ固執スルトシクジルゾ・裏オモテノ両面デ謎解キヲシテイクノダゾ、というようにです。

 更に、相手ヤ対象ノ積極面ヲ読ミ取レヨ・限界面ダケヲ指摘シテモ現実ハ動キマセンゾ・最後ハウマク位置ヅケヲ考エテ生カスンデスヨ、とも耳元に聞こえてくるんです。

 今西錦司流にいうと、すみわけてき世界観とということになりましょうか。

 それはさておくにせよ、今しがたのマンダラ主義のとぐろささやき、それが私の学問方法論です。

 ですから、理科や科学の教育を考えるならば、非科学や前科学の教育をも考慮に入れないと片手落ちになるぞ、というような発想が即座に出てくるんです。
 
 
 
(『庄司和晃著作集2「柳田国男と科学教育』明治図書 はしがきより)

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全面教育学研究会通信
2012.4.1
NO.9


《1月例会報告》
   
教育実験へのいざない

従来言われている「教育実践」を
我々はあえて「教育実験」と言ってきた。
そのルーツは、成城学園の沢柳政太郎にまで
さかのぼる。自らの学問作りに影響を与えた
数多の人々のエピソードを紹介する
「自分の学問と人生」(庄司和晃)は
柳田国男、三浦つとむなどが登場し興味が尽きない。
 
 

 自分の学問と人生
庄司 和晃

 今回は、庄司先生が関わってきたさまざまなオーソリティの紹介です。題して「自分の学問と人生」、まずは三浦つとむとは何か、からスタートしました。三浦つとむのどの辺りに惹かれたのかというと、「哲学」だけが難しいもののように学校で扱うのは納得がいかないという疑問でした。哲学、すなわち生き方やものの見方考え方のイロハを若いうちから学んでもいいのではないか、その提言に庄司さんは、「ピクンときた、と書いています。そこから弁証法研究が始まり、ついには認識の三段階連関理論へと深化していく筋道が開かれていきます。哲学はヘーゲルで終わったという三浦さんは、また哲学とは何か、それは弁証法である、とも言っています。そのような考え方から『1たす1は2にならない』(国土社)という名著が生まれたことがわかります。

 次は柳田国男です。戦後間もない頃の成城学園にいた庄司さんにとって父兄でもあり近くに住まっていた柳田国男は身近な存在であったことは言うまでもまりません。ずばり、柳田国男とは何か、と問えば、前代的教育の発見者、ということになるでしょう。それは、学校教育のみならずさまざまな日本人の営みの原点を指し示すものとなったと言っても過言ではありません。その日本人の生き方を集約したコトワザが、「かには甲羅に似せて穴を掘る」です。身の丈にあった生き方、そんな自然な生き方が日本人にはあったことを気づかせてくれます。

 成城学園を創設した沢柳政太郎も、庄司さんに大きな影響を与えた人物の一人です。科学の学び方、観察の仕方、分析の方法など、私学ならではのアプローチがそこには満ちあふれています。大正デモクラシーの自由教育の中で成城学園の科学教育は花開いたといえるでしょう。このあと庄司さん自身の体験に基づいた「人生とは何か」「愛とは何か」というテーマが続きます。その中で「思い」がおのれを導く、チャンスは常にある。という言葉に強さを感じました。

 人物論では、論文の引用で影響を受けた今西錦司や小林秀雄の「私の人生観」の分析、亀井勝一郎では、文章作りや文章の呼吸に影響され、文学をあまり語ってこなかった庄司さんには珍しく山本周五郎は全部読んだ、という一言が印象的でした。とくに『樅ノ木は残った』に影響されたとしめくくっています。次回、梅棹忠夫や板倉聖宣、阿川弘之らが続きます。

 

気づきの〈網〉を張る
  〜「気づく―心づく―考えつく」〜
 
植垣一彦

 「気づき」と「学び」についての考察レポート。「気づく」という認識活動は、「三段階連関理論」でいえば、第一段階。第二段階は「心づく」。第三段階は「考えつく」。この「のぼりおり」で、「気づく」という初発の感覚的直感的認識は深まってゆく。

 こうした構造について考えあぐねていたとき…柳田国男の使っている「心づく」といういい言葉がある、思いを巡らせ、想像するという意味で、この言葉を活かしたい―とのご教示を庄司和晃先生からいただき、霧が晴れるようにサーッと視界が開けたのだった。

 加えて、「気づく力」に話が及んだとき、網を張っていると対象が引っ掛かってきますな―とおっしゃっていただき、コレだ!と決め文句が決まるとともに、学問や世界を引き寄せる先生の方法論と、学問に対する愛情のようなものが電話の向うから伝わってきたのだった。

 「気づき」のエピソードや「気づき」の意識的方法論の具体例など、考察はさらに深められる余地を残している。詳細は「年報」に集録。(植垣 記)
 

研究会余録集
「冒険する認識論」
      
向井吉人

 向井さんが1月に発行した私家版の研究誌「冒険する認識論」(八王子市立由井第一小学校校内研究会 研究余録集)は、認識論を学校教育(小学校国語)の現場におろしたという功績においてすばらしい価値があると思います。

 昨今、全面教育学研究会のメンバーが高齢化し、新しい若手へのバトンタッチが不十分な状況の中で小学校現場での認識論の展開を具体的に取り上げた例として格好の冊子となりました。

 特に、「きっかけことば」や導入の工夫など三段階連関理論の「のぼり」「おり」が日々の授業の中でどのように展開していけばいいのかのヒントが満載しています。

 具体的には国語の授業展開となっていますが、社会科や算数など他の教科にも敷衍できる内容です。特別なことをやるのではなく、認識論をふまえた授業展開として注目です。
 

小田さん
作新学院の特任教授に

 小田富英氏が作新学院の特任教授として正式に決定しました。受け持つのは、小学校教員養成課程の社会科部門です。

 小田さんは、柳田社会科のオーソリティでもありますが、庄司認識論を学生に紹介してほしいと願っています。研究室には、庄司先生の蔵書も移され、全面教育学のベースキャンプとなることでしょう。今月の11日、早速出勤した小田さんは、今回小田さんを招いた同じ全面研の小林千枝子さん(作新学院教授)の研究室と隣同士だったそうで、今後の活躍が期待されます。


久しぶりに篠原さんと再会
徳永 忠雄

 父の病気で田舎(長野市)に帰ることが続いていましたが、同じ長野市に住む本研究会のメンバー篠原さんに会うことができました。

 篠原さんは、今回の年報にも小学校の教育実験をかなり具体的に報告し、現場での実践家としてもうベテランの域に達しています。その篠原さんは、特に向井さんの『冒険する認識論』には、大いに触発されたとのことでした。なかなか地方にいる関係で成城学園まで参加することは難しいようですが、久しぶりに会ったこともあり、今年度は何とか参加したいとおっしゃっていました。
 

今年度
全面研年報ラインナップ

 2011年度の全面教育学研究会の年報が完成しました。執筆者と内容は以下の通りです。1冊600円(予価)是非お読み下さい。購入希望の方は、編集の向井さんまでご連絡をしてください。
 
◆庄司和晃
・庄司式論理学の大系要目
 ―三段階連関理論を主軸とした論理学―
・庄司式論理学の足場
 ―三段階論文作りで見せた学ぶ側の位置とその思い―
・自分の学び取りと人生
 ―私にとっての三浦つとむとは何か―
・私の人生とは何か
  「思い」がおのれを導く
◆篠原賢朗
・小学校6年生の認識論
   ―「庄司式論理学の足場」「庄司式認識論の足場」を足場とした三段階論文作り―
◆小田富英
・「平地人」とはだれか(1)
  ―『柳田国男全集』明治41年年譜から―
◆徳永忠雄
ルソーから柳田国男へ
◆岩井貴裕
・続々・庄司和晃の理科教育論に関する一考察
 ―科学館の形成という主張に着目して―
◆植垣一彦
・気づきの〈網〉をはる
◆向井吉人
・ことば遊びコレクション‘11



4月例会のお知らせ
期日:4月28日(土)
    14:00〜17:00
場所:成城学園(大学)
   正門脇大学棟3F食堂奥
内容:本年度研究会年報合評会
   その他近況報告
*なお、今後の本研究会例会は、6月、9月、11月、1月、4月の第4土曜日に成城学園で行う予定です。
 


追悼 吉本隆明
「無方法の方法」より
 
吉本隆明

 柳田国男の方法を、どこをたどっても「抽象」というものの本質的な意味は、けっして生まれてこない。珠子玉と珠子玉を「勘」でつなぐ空間的な拡がりが続くだけである。この柳田学の方法的な基礎は、彼自身の語るところによれば、「宮中のお祭りと村々の小さなお宮のお祭りとは似ている。これではじめてほんとうに日本の家族の延長が国家になってゐるという心地が一番はっきりとします。」(「民俗学の話」)という認識にあった。かれは土俗共同体の俗習が、そのまま昇華したところに国家の本質をみたのである。そして、土俗を大衆的な共同体の根拠として普遍的なものと見なしたのである。このような認識が、連環法をうみだしたのは、いわば必然であった。連環法こそは言葉が語りの次元ある限り時代を超えて続く土俗の方法であったから。

 彼は、人間の本質指向力が、常に土俗からその力点を抽出しながら、ついに、土俗と対立するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象に対する意識のあり方を象徴しつつ、対象と強力に相反目するものであり、これをになう人格が、つねに共同性からの孤立を経てしか、歴史を動かさないということを知ろうとしなかった。

 柳田国男はひとつの悲劇であり、巨大な悲劇であった。かれの方法が、時代と状況により、保守派に根拠をあたえ、逆に進歩派に根拠をあたえる双頭の存在でありうるということは、大した問題ではない。だが少なくとも、彼の無方法の方法は、在来ありきたりの方法的な成果を、方法的に制覇しうるほどの業績を上げていることを疑うことはできない。

 わたしは、私は今後とも柳田国男の仕事を利用させてもらうつもりだが、旧来の保守派や進歩派のように、みずからの方法的な貧困を補うために、あるいは、実証的な田に水を引くために、これを利用することはしまいとおもう。明瞭にその仕事の理論的な意味を位置づけたうえで、動かぬ使い方をしたい。

 何よりも抽象力を駆使するということは知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題にぞくしている。柳田国男の膨大な収集と実践的な探索に、もし知識が絶えないならば、私たちの大衆は、いつまでも土俗から歴史の方に奪回することはできない。
 
 
 



 
 
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